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復活節第4主日 ≪弟子の委託≫
礼拝説教

日本キリスト教団磐城教会 2016年4月17日
1 シオンのために、わたしは決して口を閉ざさず
 エルサレムのために、わたしは決して黙さない。
 彼女の正しさが光と輝き出で
 彼女の救いが松明のように燃え上がるまで。
2 諸国の民はあなたの正しさを見
 王はすべて、あなたの栄光を仰ぐ。
 主の口が定めた新しい名をもって
   あなたは呼ばれるであろう。
3 あなたは主の御手の中で輝かしい冠となり
 あなたの神の御手の中で王冠となる。
4 あなたは再び「捨てられた女」と呼ばれることなく
 あなたの土地は再び「荒廃」と呼ばれることはない。
 あなたは「望まれるもの」と呼ばれ
 あなたの土地は「夫を持つもの」と呼ばれる。
 主があなたを望まれ
 あなたの土地は夫を得るからである。
5 若者がおとめをめとるように
 あなたを再建される方があなたをめとり
 花婿が花嫁を喜びとするように
 あなたの神はあなたを喜びとされる。
イザヤ書 62章1〜5節
 15食事が終わると、イエスはシモン・ペトロに、「ヨハネの子シモン、この人たち以上にわたしを愛しているか」と言われた。ペトロが、「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」と言うと、イエスは、「わたしの小羊を飼いなさい」と言われた。16二度目にイエスは言われた。「ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか。」ペトロが、「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」と言うと、イエスは、「わたしの羊の世話をしなさい」と言われた。17三度目にイエスは言われた。「ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか。」ペトロは、イエスが三度目も、「わたしを愛しているか」と言われたので、悲しくなった。そして言った。「主よ、あなたは何もかもご存じです。わたしがあなたを愛していることを、あなたはよく知っておられます。」イエスは言われた。「わたしの羊を飼いなさい。18はっきり言っておく。あなたは、若いときは、自分で帯を締めて、行きたいところへ行っていた。しかし、年をとると、両手を伸ばして、他の人に帯を締められ、行きたくないところへ連れて行かれる。」19ペトロがどのような死に方で、神の栄光を現すようになるかを示そうとして、イエスはこう言われたのである。このように話してから、ペトロに、「わたしに従いなさい」と言われた。

 20ペトロが振り向くと、イエスの愛しておられた弟子がついて来るのが見えた。この弟子は、あの夕食のとき、イエスの胸もとに寄りかかったまま、「主よ、裏切るのはだれですか」と言った人である。21ペトロは彼を見て、「主よ、この人はどうなるのでしょうか」と言った。22イエスは言われた。「わたしの来るときまで彼が生きていることを、わたしが望んだとしても、あなたに何の関係があるか。あなたは、わたしに従いなさい。」23それで、この弟子は死なないといううわさが兄弟たちの間に広まった。しかし、イエスは、彼は死なないと言われたのではない。ただ、「わたしの来るときまで彼が生きていることを、わたしが望んだとしても、あなたに何の関係があるか」と言われたのである。
 24これらのことについて証しをし、それを書いたのは、この弟子である。わたしたちは、彼の証しが真実であることを知っている。
 25イエスのなさったことは、このほかにも、まだたくさんある。わたしは思う。その一つ一つを書くならば、世界もその書かれた書物を収めきれないであろう。

ヨハネによる福音書 21章15〜25節

1.人間をとる漁師に…
  主イエス・キリストの十字架の死の後、弟子たちは故郷のガリラヤに帰りました。ガリラヤで主に召された以前の生活に戻ろうとしていました。主を知らないで生きていたときと変わらない時間を過ごしていました。ペトロが突然、「漁に行く」(ヨハ21:3)と言い出しました。他の6人の弟子たちが「わたしたちも一緒に行こう」と言って、「ティベリアス湖」(ヨハ21:1)、すなわちガリラヤ湖へと出かけ行き、舟に乗りこみます。

  弟子たちはまったく元の漁師に戻ってしまったのでしょうか。ガリラヤ湖畔で主イエスの弟子として召し出された時に一度は捨てた網(マタ4:20)を、今、また握りしめています。漁師の勘が鈍ってしまったのでしょうか。その夜には、網を打っても何もかかりませんでした。網を手にしながら、どこか力が入らなかったのかもしれません。夜明けごろ、そう遠くない岸の方でだれかの声が聞こえました。「子たちよ、何か食べる物があるか」(ヨハ21:5)。当然、「ありません」。その人は言います。「舟の右側に網を打ちなさい」(ヨハ21:6)。弟子たちは素直にもそのようにしました。すると、どうでしょうか。あまりにもたくさんで舟に引き上げるのが困難なほど大漁となったのです。

  そこで弟子たちは、岸に立っているその方がだれであるか、気づきました。「主だ!」(ヨハ21:1)とだれかが叫ぶと、弟子のペトロは、その言葉を聞いて咄嗟に湖に飛びこみました。他の弟子たちは重くなった網をひきながら舟で、ペトロだけはずぶ濡れになりながら岸にたどり着きます。やはり主でした。復活された主が、再び弟子たちのところに来られたのです。「自分が何をしたのか胸に手を当ててみなさい」などとは言わずに、「魚を焼こう」とおっしゃいます。しかも「まずあなたが火を起こしなさい」ではなく、もう準備はできています。「さあ、朝食にしよう」と、「子どもたちよ」と、主は、わたしたちを食卓にお呼びになります。

  親を、ひどく悲しませたことがある人はわかると思います。親を裏切るようなことをしてしまった時、子どもは食卓に与ることはできないのでしょうか。そうではないでしょう。朝が来ると、ごはんが準備されています。子どもは当然のように、それを食べて幼稚園や学校に出かけて行きます。自分の力でしているかのように思っていても、実は多くの部分で親が御膳立てをしているのです。しかし、それは後にならないとわからないことでもあります。最大の裏切りの後に、主は弟子たちを、この食卓へと招かれるのです。

  古くから教会では、この朝の大漁の記事を、弟子たちの宣教への派遣の出来事として聞いてきました。弟子たちは、かつてこのガリラヤ湖で主に召されました。主は漁師であった弟子たちに、このように言われました。「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」(マタ4:19)。主は今、弟子たちを、多くの回心者を得る漁師として新しく遣わされるのです。

2.新しい名をもって
  ご復活の主イエスは、わたしたちを「わたしの兄弟たち」(マタ28:10)と、「子たちよ」(ヨハ21:5)と呼んでくださいます。しかし、もっと喜ばしいことが今日、告げられています。朝食が終わった後で、主イエスはペトロの前に来られました。そして、こう言われるのです。「ヨハネの子シモン、この人たち以上にわたしを愛しているか」(15節)。

  「ペトロ」(「岩」の意味)という呼び名は、主イエスが命名されました。「あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる」(マタ16:18)とおっしゃいました。けれども主イエスは、しばしばペトロを、元来の名前で「シモン」と呼びました。弟子たちに向かって、「わたしの兄弟」、「子どもたち」と呼ばれた主は今、彼の名を呼ばれます。「ヨハネの子シモン」

  ある青年が就職して1年が経ったときに、「仕事はどう?」と聞くと、次のような答えが返って来ました。「仕事内容には慣れてきましたし、職場の人間関係にはとても恵まれています」。コミュニケーションがうまくいっていると聞いてほっとしましたが、でも、ひとつ問題があるようでした。上司がいつも不機嫌で、横柄な態度を取るというのです。その中で特に気になったことは、その人が部下の名前を一切呼ばずに指図をするということでした。「おい」とか「おう」とかと無愛想に話しかけられ、何かを命じられると、毎度苦い思いをするのだそうです。わたしもこの話には心から共感しました。

  ある大学で教員をしている方がこのような話をしていました。都心にある大学ですが、最近は特に中国からの留学生も増えているそうです。その留学生のひとりがうれしそうに、その教師に話したそうです。キャンパス内の通りを歩いていたら、突然、大きな声で自分の名前を呼ぶ声が聞こえた、と。だれかが、その名前を呼んだのですね。その声を聞いたとき、自分は日本に残ってがんばろうと思えた、と。この留学生は、来日してから長い間、だれからも名前を呼ばれていなかったのです。毎日数千人の人たちが行き交うキャンパスの中で、だれかがその人の名前を呼びました。たったそれだけのことが、その留学生に新しい力を与えました。

  神は言われます。「わたしの目にあなたは価高く、貴い」(イザ43:4)。「あなたはわたしのもの。わたしはあなたの名を呼ぶ」(イザ43:1)。わたしがだれであろうと関係ない社会の中で、自分が何者であるか見失いそうな世界の中で、神はわたしたちの名前を呼ばれます。今日、わたしたちには、こう告げられています。「主の口が定めた新しい名をもって あなたは呼ばれるであろう」(イザ63:2)。

  教会で話していると、よくこのようなやりとりになります。「最近、あの人来てないですよね。ほら、続けて来ていたあの人…」。記憶力の衰退には抗えないと思わされます。それにしても、わたしたちはもっと大切にすることができるはずです。主が呼んでくださっているひとりの名前を。

3.わたしの羊を飼いなさい
  ペトロは、名前を呼ばれました。でも、まっすぐ主を見つめることができませんでした。主を裏切ったからです。主のために自らの命を差し出すと断言したにもかかわらず(ヨハ13:37)、主の十字架の前の裁判のときには、大祭司の屋敷で、3度、主イエスの弟子であることを否定しました。「お前もあの男の弟子の一人ではないのか」(ヨハ18:25)と聞かれると怖くなって「違う」と言いました。そのペトロに、復活の主は問われます。「ヨハネの子シモン、この人たち以上にわたしを愛しているか」(15節)。

  ペトロは、おずおずと答えます。「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」。主は言われます。「わたしの小羊を飼いなさい」。しかし、再び主は問われます。「ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか」(16節)。ペトロは脂汗をかきながらやっとの返事をします。「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」。「もちろんです」。「死ぬほど好きです」。今更そんなことを言っても通じるわけがないのです。しかし、主イエスはなおもペトロに問われます。「ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか」(17節)。ペトロはうなだれました。主が、他でもない自分の名を呼ばれ、3度も問われるので、どう答えたらよいかわかりません。「主よ、あなたは何もかもご存じです。わたしがあなたを愛していることを、あなたはよく知っておられます」

  人は、主イエス・キリストに出会って回心します。主の愛を知り、主の愛に生きようとするのがキリスト者であり、教会です。しかしここには躓きもあります。魚を獲ったときの喜びはすばらしいものですが、網の上でピチピチ跳ねる魚は死んでしまうので、その先がなかなかイメージできません。今や、魚は、羊に取って代わります。主がこう言われるのです。「わたしの羊を飼いなさい」(17節)。「人間をとる漁師」として回心者を生むばかりでなく、羊を養うように、信仰に留まることができるように一人ひとりを導く、牧会者の務めへと召し出されます。羊飼いは、自らの名前を呼ばれるばかりでなく、日々羊たちの名前を呼びます。

  今日は、イースター(復活日)から数えて4度目の日曜日です。この日は教会の伝統で「良い羊飼いの日曜日」と呼ばれる主の日です。礼拝の中で、役員就任式を備えています。先週、役員のメンバーの鈴木郁子姉が入院されました。大きな痛みと闘っていらっしゃいます。入院直前に「しばらく役員の任を負えず申し訳ない」との長文の手紙が届きました。しかし、彼女の闘病が教会への大きな奉仕となります。わたしたちが彼女の名前を憶え、その痛みを少しでも憶える祈りにおいて、強く結びつけられるからです。わたしたちが災害の困窮の中にある人々を憶えることができるとすれば、助けを必要としているひとりと出会うときではないでしょうか。今、主の呼びかけを聞いたわたしたちには、何ができるでしょうか?

祈り


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Tel/Fax 0246-21-2145
          いわき きょうかい
日本キリスト教団 磐 城 教 会
牧師 上竹 裕子
更新:2016.5.20

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