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復活節第5主日 ≪聖霊の実≫
礼拝説教

日本キリスト教団磐城教会 2016年4月24日
24わたしはお前たちを国々の間から取り、すべての地から集め、お前たちの土地に導き入れる。
 25わたしが清い水をお前たちの上に振りかけるとき、お前たちは清められる。わたしはお前たちを、すべての汚れとすべての偶像から清める。26わたしはお前たちに新しい心を与え、お前たちの中に新しい霊を置く。わたしはお前たちの体から石の心を取り除き、肉の心を与える。27また、わたしの霊をお前たちの中に置き、わたしの掟に従って歩ませ、わたしの裁きを守り行わせる。28お前たちは、わたしが先祖に与えた地に住むようになる。お前たちはわたしの民となりわたしはお前たちの神となる。
エゼキエル書 36章24〜28節
 18「世があなたがたを憎むなら、あなたがたを憎む前にわたしを憎んでいたことを覚えなさい。19あなたがたが世に属していたなら、世はあなたがたを身内として愛したはずである。だが、あなたがたは世に属していない。わたしがあなたがたを世から選び出した。だから、世はあなたがたを憎むのである。20『僕は主人にまさりはしない』と、わたしが言った言葉を思い出しなさい。人々がわたしを迫害したのであれば、あなたがたをも迫害するだろう。わたしの言葉を守ったのであれば、あなたがたの言葉をも守るだろう。21しかし人々は、わたしの名のゆえに、これらのことをみな、あなたがたにするようになる。わたしをお遣わしになった方を知らないからである。22わたしが来て彼らに話さなかったなら、彼らに罪はなかったであろう。だが、今は、彼らは自分の罪について弁解の余地がない。23わたしを憎む者は、わたしの父をも憎んでいる。24だれも行ったことのない業を、わたしが彼らの間で行わなかったなら、彼らに罪はなかったであろう。だが今は、その業を見たうえで、わたしとわたしの父を憎んでいる。25しかし、それは、『人々は理由もなく、わたしを憎んだ』と、彼らの律法に書いてある言葉が実現するためである。
 26わたしが父のもとからあなたがたに遣わそうとしている弁護者、すなわち、父のもとから出る真理の霊が来るとき、その方がわたしについて証しをなさるはずである。27あなたがたも、初めからわたしと一緒にいたのだから、証しをするのである。
ヨハネによる福音書 15章18〜27節

1.新しい歌を主に向かって歌え
  イースター(復活日)から数えて、5度目の日曜日を迎えました。イースターは、クリスマス、ペンテコステと共にキリスト教会の3大祭のひとつです。クリスマス(降誕日)は、主イエス・キリストのお誕生日です。ペンテコステ(聖霊降臨日)は、教会の誕生日です。3大祭を誕生日つながりで考えますと、イースターは「キリスト者の誕生日」と呼ぶこともできます。主イエス・キリストの十字架と復活の後、初めて主を信じる人たちが誕生したのです。

  この説明は正しいでしょうか。主イエスの十字架の前には、弟子たちは主を信じてはいなかったのでしょうか。少なくとも主イエスの12人の直弟子たちは、主に召されて、主を信じて従ったのではないでしょうか。たしかに弟子たちは、主を知らない他の人たちとは違うレベルで主のことを知っていました。他の人たちよりも主を愛しているという自覚がありました。しかし、本当の意味で主を知ることはできなかったのです。十字架にかけられた神など信じることはできませんでした。そうであるから、主の十字架を前にして、皆が躓き、逃げ去ってしまいました。

  しかし、弟子たちがどんなに意気地なしで不甲斐ない者であろうとも、主イエスは復活されました。復活されて、弟子たちの前にやって来られるのです。復活の主は、弟子たちに息を吹きかけて言われました。「聖霊を受けなさい」(ヨハ20:22)。弟子たちは、このとき新しい者とされました。復活の主イエスに出会い、主の聖霊が与えられた時、初めて弟子たちは、主イエスの真実を知るキリスト者とされたのです。

  古代教会において、キリスト者として新しく生まれる洗礼式は、年に一度、イースターに行われていました。洗礼は、主イエスの死と復活の出来事に深く結びついているからです。イースター前夜には、洗礼志願者たちは徹夜の祈りをささげ、聖書に耳を傾け、最後の教えを受けました。そしてイースターの夜明け、最初の光が地平線から差し込むのと同時に、洗礼志願者は、一人ひとり、まだ暗い中庭を横切っていきました。そこから洗礼のための部屋へ移動して、洗礼を受けました。新しく生まれたキリスト者は、自分の人生に新たな夜明けの光が射しこむのを見たのです。

  イースターには、今も世界中の教会で新しいキリスト者が生まれています。新たな家族として新生児を迎えた教会は、新しい歌をもって主を讃美します。復活節第5主日の今日は、教会の伝統に従って「Cantate(新しい歌を主に向かって歌え)」という名の日曜日です。わたしたちは、新しい歌を歌うことができるでしょうか。新しい出発をする備えができているでしょうか。弟子たちは、すぐに新しいスタートをきって歩き始めることができたわけではなかったように思います。主イエスのお姿が見えないのに、どうして前に進むことができるでしょうか?

2.「憎しみ」というテーマ
  今日、ご一緒に聞いています福音書のみ言葉は、主イエス・キリストの「告別説教」と呼ばれる特別な部分です。主イエスが十字架におかかりになる前の晩、弟子たちと共に囲んだ最後の晩餐に語られた長いお言葉の一部です。今日の直前の15章1〜17節は、告別説教の中心部にあり、もっとも印象的な主のお言葉を含んでいます。「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ」(ヨハ15:5)。主イエスは、ご自分と弟子たちとの間の絆についてお語りになります。また、主はこのようにもおっしゃいました。「あなたがたはわたしの友である」(ヨハ15:14)。「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ」(ヨハ15:16)と。主は、弟子たちへの揺るがない「愛」をお示しになります。

  これに対して、今日の15章18節以下には、「憎む」(misew)という言葉が繰り返し登場します。「愛」についての言葉を多く記している福音書記者ヨハネが、特によく用いる言葉です。「世があなたがたを憎むなら、あなたがたを憎む前にわたしを憎んでいたことを覚えなさい」(18節)と言われます。あなたたちは苦い目に遭うだろう、と主は言われます。あなたたちは理解されず、冷たくあしらわれるだろうと言われます。受け入れられず、拒絶される時が来るだろう、と。主イエスは、この言葉を語られた翌日、十字架におかかりになりました。主は、人々から受け入れられず、拒絶されたのです。今や、弟子たちは思い起こします。「人々がわたしを迫害したのであれば、あなたがたをも迫害するだろう」(20節)と言われた主のお言葉を。主に従う者たちには迫害が襲うというのですね。これは、わたしたちにとって理解できない言葉ではないはずです。しかしこの迫害の苦しみは、主の苦しみと密接に結び付けられています。

  しかも、主イエスは御自らの苦しみについて聖書のみ言葉を引いて、精確にこう言われます。「『人々は理由もなく、わたしを憎んだ』と書いてある言葉が実現するためである」(25節)と。「理由もなく」、憎まれ、苦しみを受ける。この聖書のみ言葉を聞く時、わたしたちは戸惑います。また、その言葉の通りに主イエスが歩まれたことを知るとき、わたしたちの心に不協和音が響きます。聖書は、世の不条理を語っているというのでしょうか?

  わたしたちは、この世界のすべての出来事に理由があると信じたいのです。歴史の中で起こった数々の出来事を解釈し、意味づけをします。さまざまな事象に、「ああすればこうなる」といった規則を見出します。原因と結果を結びつけます。わたしたちが生きる世界にはそういった因果応報という側面もあるでしょう。しかし、わたしたちがより深いレベルで直面する問題の多くは、「理由もなく」、原因のわからないものです。

3.聖霊が与えられるから
  わたしたちが生きている世界が因果応報であれば、説明できないことがたくさんあります。なぜあのような方が病を受けなければならなかったのか、と問えば答えられる人はいません。不条理です。しかし、善い人が長生きをするという法則なら、皆が長生きのために善いことをするでしょうか。善いことをすれば、金が天から降って来るとか、悪いことをすれば、鳥のフンが降って来るとか、そういうルールにすればよりよい世界になるでしょうか。そうではないはずです。もしそうなら、わたしたちは、損得勘定だけで行動するでしょう。わたしたちは神を忘れ、人の心も失ってしまうでしょう。

  わたしたちは、効率の悪い無駄なことは避けたいと思っています。合理的でないことに耐えられません。コスト・パフォーマンスがものを言う世界ですから。どんどん便利になり、さまざまの分野で品種改良も進んでいきます。果物から種が消えて食べやすくなりました。野菜もびっくりするほどおいしくなりました。古そうに見えて礼拝堂の電気もLEDです。しかし、人間の力では「改良」できないものがあります。抗いえない出来事が起こります。このたびの熊本地震は、そのような出来事です。町のシンボルであった熊本城が無残に崩れ落ちる姿は、避難生活を強いられる人々のショックをさらに大きなものとしました。崩壊し、建物や道路、そこにあった暮らしのすべてをのみ込んでいく山を見ています。

  今まで価値あると思っていたものが、一転してそうではなくなってしまいます。なぜこのようなことが起こるのか、だれにも説明できません。「理由もなく」という言葉に、ただただ無気力、無感覚が襲ってきます。しかし、このようなわたしたちに、聖書は語りかけるのです。「わたしはお前たちに新しい心を与え、お前たちの中に新しい霊を置く。わたしはお前たちの体から石の心を取り除き、肉の心を与える」(エゼ34:26)。カチカチになった石の心を取り除き、「新しい心」「肉の心」を与える、と。「肉の心」とは、必ずしもよい響きではないかもしれません。人間の生々しい心、ありのままの心です。嘆き、悲しみがあり、叫びがあります。

  主イエスは何も罪を犯されなかったのに、十字架の苦しみと恥を引き受けられました。もっとも不条理な十字架の上で、主は叫ばれたのです。「エリ、エリ、レマ、サバクタニ―わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」(マタ27:46)。わたしたちが、自らの理解を超えた苦難に出会うとき、主と共に歩むならば、必ず人智を超えた助けが与えられることを、主は約束してくださるのです。「父のもとから出る真理の霊が来る」(26節)と。インマヌエル(「神われらと共に」の意味)の主は、クリスマスにわたしたちの間にお生まれになりました。復活の主は、さらに近くで、わたしたちの内側に来られます。聖霊なる主が、見えない姿で、わたしたちの心の深いところに来てくださり、わたしたちの存在の根底を支えてくださるのです。

祈り


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          いわき きょうかい
日本キリスト教団 磐 城 教 会
牧師 上竹 裕子
更新:2016.5.21

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