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復活節第6主日 ≪キリストの勝利≫
礼拝説教

日本キリスト教団磐城教会 2016年5月1日
 7モーセは一つの天幕を取って、宿営の外の、宿営から遠く離れた所に張り、それを臨在の幕屋と名付けた。主に伺いを立てる者はだれでも、宿営の外にある臨在の幕屋に行くのであった。8モーセが幕屋に出て行くときには、民は全員起立し、自分の天幕の入り口に立って、モーセが幕屋に入ってしまうまで見送った。9モーセが幕屋に入ると、雲の柱が降りて来て幕屋の入り口に立ち、主はモーセと語られた。10雲の柱が幕屋の入り口に立つのを見ると、民は全員起立し、おのおの自分の天幕の入り口で礼拝した。11主は人がその友と語るように、顔と顔を合わせてモーセに語られた。モーセは宿営に戻ったが、彼の従者である若者、ヌンの子ヨシュアは幕屋から離れなかった。
出エジプト記 33章7〜11節
 25「わたしはこれらのことを、たとえを用いて話してきた。もはやたとえによらず、はっきり父について知らせる時が来る。26その日には、あなたがたはわたしの名によって願うことになる。わたしがあなたがたのために父に願ってあげる、とは言わない。27父御自身が、あなたがたを愛しておられるのである。あなたがたが、わたしを愛し、わたしが神のもとから出て来たことを信じたからである。28わたしは父のもとから出て、世に来たが、今、世を去って、父のもとに行く。」29弟子たちは言った。「今は、はっきりとお話しになり、少しもたとえを用いられません。30あなたが何でもご存じで、だれもお尋ねする必要のないことが、今、分かりました。これによって、あなたが神のもとから来られたと、わたしたちは信じます。」31イエスはお答えになった。「今ようやく、信じるようになったのか。32だが、あなたがたが散らされて自分の家に帰ってしまい、わたしをひとりきりにする時が来る。いや、既に来ている。しかし、わたしはひとりではない。父が、共にいてくださるからだ。33これらのことを話したのは、あなたがたがわたしによって平和を得るためである
ヨハネによる福音書 16章25〜33節

1.主の食卓への招き
  多くの教会と同様、わたしたちの教会でも、毎月の第一日曜日に、聖餐の食卓を備えております。聖餐は、主イエス・キリストが十字架におかかりになる前の晩、弟子たちと囲まれた最後の晩餐を記念する食卓です。キリスト教会の中心にあるものが、この聖餐テーブルです。アメリカである改革派の教会を尋ねたとき、このテーブルは、会衆席の真ん中に置かれていました。温かみのある変形の木の食卓テーブルで、一同がコの字形にこのテーブルを囲んで座りました。わたしたちは、いつも中心あるこのテーブルの存在を忘れないようにしなければなりません。この食卓に与ることのできる恵みがどんなに大きいことか。聖餐は、主イエス・キリストを信じる信仰により洗礼を受けた者が与ります。洗礼を受けていない方を招いていないのではなく、わたしたちは、ぜひ洗礼を受けていただきたいと思っているのです。一日も早く聖餐の食卓を共にすることができるようにと願っています。

  わたしたちの教団では、神学校を卒業してすぐに牧師になるわけではありません。伝道師という立場で2年以上教会に仕える訓練を受けて、牧師となる試験を受ける資格が与えられます。伝道師は、礼拝の説教の務めを担うことはできますが、洗礼や聖餐といった聖礼典は執行することができません。牧師の任職を受けた者だけが、それをすることができます。説教は神の言葉です。聖餐は目に見える、味わい知ることのできる神の言葉なのです。牧師となって、初めて執行した聖餐のよろこびは生涯忘れることはないと思います。しかし、牧師とされて数年が経つと、聖餐のよろこびと同時に、聖餐を分かち合うことのできない苦しみというものを味わうようになりました。

  2月に、おふたりの兄弟姉妹が相次いで召されました。笹山兄が末期がんで入院された時、ご家族と相談して聖餐を準備して伺いました。しかし、日によって容体が不安定で、伺った時には食物を口にすることさえ難しい状況でした。聖餐を断念しました。橋本姉も、最期はお水さえもほとんど受けつけないという日が続きました。病床で、さらに臨終に近づく時に、聖餐に与ることがもっとも大きな慰めになることを、神学校では教えられてきたのですが、実際に牧師として教会に遣わされると、非常に難しいことを思い知らされました。今日も、この聖餐の食卓に与ることのできない姉妹兄弟のあることに痛みを憶えます。

  主は、何故にわたしたちをこの食卓へと招かれたのでしょうか。わたしたちが、聖餐に与ることのできない方たちと何が違っているというのでしょうか。ただ健康だから、というそれだけの理由でしょうか。考えてみたいのです。かつて活動的であった人が、人のために何でもしてきた人が、病の床に伏しているとき、聖餐という神の言葉は、わたしたちに何を語りかけるのでしょうか。

2.ふさわしい客
  今日、ご一緒に聞いていますヨハネによる福音書の16章25節以下は、主イエスが十字架におかかりになる前の晩、弟子たちにお語りになった告別説教の結びにあたる部分です。主はこの説教を、最後の晩餐の席で語られました。最後の晩餐の後、歩いて行かれたゲツセマネの園で、主イエスは、人々の手に引き渡されました。主イエスは捕らえられました。これまで方々の町や村に赴かれ、人々を教え、癒し、数々の奇跡を行われた主は、今その活動期を閉じられ、捕らえられ縛られ、連れて行かれます(ヨハ18:12)。主は受け身となられたのです。聖餐の食卓の主は、そのようなお方です。わたしたちがこの食卓に招かれるのは、健康で力があるからではなく、精力的に何かを行っているからではなく、信仰熱心だから、でもないのです。自らがこの食卓にいかにふさわしくない者であるかを、招かれた者自身がよくわかっています。

  17世紀に活躍したイギリスの聖職者であり詩人であるジョージ・ハーバートという人がいます。彼は、神の愛を擬人化して、次のような詩を残しています。「愛」Loveという詩です。

愛はわたしをよろこび迎えたのですが、わたしの魂はためらっていました。罪に汚れていることを恥じて。すると、目ざとい愛は、わたしが入室したときから、歩みがのろいのに気づいて、わたしに近づき、優しくたずねてくれました。何か足りないものがあるのかと。
「ここにふさわしい客がいません」とわたしは答えました。すると愛は答えました。「あなたはその客なのですよ」と。「優しさがなく、感謝ができないこのわたしがですか? おお主よ、わたしはあなたのみ顔を仰ぎ見ることさえできません」。愛はわたしの手をとって、微笑んで答えました。「わたし以外の誰が、あなたの目を造ったのですか?」

「そうです、主よ。しかしわたしは、その目を傷つけたのです。恥ずべきわたしにふさわしいところに行かせてください」。「あなたは知らないのですか?」と愛は言いました。「誰があなたの罪を背負ったのですか?」
「それでは、あなたにお仕えします」。
「食卓に座り、わたしの肉を味わいなさい」と愛は呼びかけました。それでわたしは座り、食事に与りました。


  主イエスと共に最後の晩餐を囲んだのは、12人の弟子たちでした。主に選ばれ、従ってきた弟子たちです。しかし、彼らはこの食卓にもっともふさわしくない者となります。いつも主の傍にいたのに、主を裏切り、主を知らないと言い、主の十字架を前に逃げ去りました。この食卓を囲んでいるのは、ふさわしくない客なのです。自らの罪を恥じるとき、わたしたちは主のみ顔を避け、逃げようとします。しかし、主は、弱さもけがれもすべてをご存知の上で、わたしたちを招かれるのです。「食卓に座り、わたしの肉を味わいなさい」と。この食卓以外に、わたしたちにふさわしい場所を見つけることができるでしょうか。

3.今ここにおいでになる主
  主の食卓は、いまここにいない人たちを想い起こさせます。この食卓に与るとき、苦しみの中にあってこの食事を口にできない人たちを想い起こします。わたしたちもまた、やがてそのような日を迎えるでしょう。しかし、それでもこの食事は、主イエスの十字架を語る、神の力ある言葉です。主は十字架の出来事において、人間の使命が、生産的な活動においてばかりでなく、一見無力な、受け身の中でさえも前進することを示されました。否、受難の中でこそ、痛みや悲しみの中でこそ、その使命が満たされることをお示しになられたのです。

  主イエスは弟子たちのもとを去られるときに、言われました。「わたしは父のもとから出て、世に来たが、今、世を去って、父のもとに行く」(28節)と。このとき弟子たちは、不完全ながらも、天の父のいらっしゃる場所に思いを馳せました。弟子たちは、興奮すら覚えて言いました。「主よ、今、分かりました」。「あなたが神のもとから来られたと、わたしたちは信じます」(30節)。弟子たちは、おぼろげながらに天の父に出会う場所を見つめています。かつて旧約聖書の人モーセが、神と出会ったように、「主は人がその友と語るように、顔と顔を合わせてモーセに語られた」(出33:11)と言われているように、そこに神がおいでになる場所です。主は、興奮する弟子たちにお答えになります。「今ようやく、信じるようになったのか。だが、あなたがたが散らされて自分の家に帰ってしまい、わたしをひとりきりにする時が来る。いや、既に来ている」(31〜32節)。弟子たちは、この後主をひとり残し、自分たちの家に帰っていきます。しかし、主は、これを身勝手な弟子たちの裏切りとしてではなく、神のご計画の中にあることとしてお語りになります。

  さらに、主は弟子たちに向かって、このように言われました。「この世であなたがたには苦難がある。しかし勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている」(33節)。すべての苦難は、主の知らないところではありません。悩みと恥、飢えと渇き、痛み、孤独、死さえも、主イエスの知らないところではないのです。主は、わたしたちに代わってすべての苦しみに挑まれ、その果てにある死と闘われ、死のとげを滅ぼされました。主イエスの十字架の死によって、すべての苦難は限界づけられたのです。わたしたちが、底なしの闇に陥ることはもうありません。闇には限界が定められたからです。

  主イエスは、わたしたちが十字架を乗り越えていくことを願われました。それゆえ、この聖餐の食卓へと招かれるのです。この食卓の中心には、主がおいでになります。食卓の主は、このパンを食べる者を、ご自分の体の一部とされます。この杯に与る者の苦難を、ご自分の苦しみとされます。そしてわたしたちを、見えざるおびただしい聖徒たちと共にご自分の勝利へと与らせてくださるのです。

祈り


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          いわき きょうかい
日本キリスト教団 磐 城 教 会
牧師 上竹 裕子
更新:2016.5.20

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