印刷用PDF(A4版)
復活節第7主日 ≪キリストの昇天≫
礼拝説教

日本キリスト教団磐城教会 2016年5月8日
 1主が嵐を起こしてエリヤを天に上げられたときのことである。エリヤはエリシャを連れてギルガルを出た。2エリヤはエリシャに、「主はわたしをベテルにまでお遣わしになるが、あなたはここにとどまっていなさい」と言った。しかしエリシャは、「主は生きておられ、あなた御自身も生きておられます。わたしはあなたを離れません」と答えたので、二人はベテルに下って行った。3ベテルの預言者の仲間たちがエリシャのもとに出て来て、「主が今日、あなたの主人をあなたから取り去ろうとなさっているのを知っていますか」と問うと、エリシャは、「わたしも知っています。黙っていてください」と答えた。4エリヤは、「エリシャよ、主はわたしをエリコへお遣わしになるが、あなたはここにとどまっていなさい」と言った。しかしエリシャは、「主は生きておられ、あなた御自身も生きておられます。わたしはあなたを離れません」と答えたので、二人はエリコに来た。5エリコの預言者の仲間たちがエリシャに近づいて、「主が今日、あなたの主人をあなたから取り去ろうとなさっているのを知っていますか」と問うと、エリシャは、「わたしも知っています。黙っていてください」と答えた。6エリヤはエリシャに、「主はわたしをヨルダンへお遣わしになるが、あなたはここにとどまっていなさい」と言った。しかしエリシャは、「主は生きておられ、あなた御自身も生きておられます。わたしはあなたを離れません」と答えたので、彼らは二人で出かけて行った。7預言者の仲間五十人もついて行った。彼らは、ヨルダンのほとりに立ち止まったエリヤとエリシャを前にして、遠く離れて立ち止まった。8エリヤが外套を脱いで丸め、それで水を打つと、水が左右に分かれたので、彼ら二人は乾いた土の上を渡って行った。9渡り終わると、エリヤはエリシャに言った。「わたしがあなたのもとから取り去られる前に、あなたのために何をしようか。何なりと願いなさい。」エリシャは、「あなたの霊の二つの分をわたしに受け継がせてください」と言った。10エリヤは言った。「あなたはむずかしい願いをする。わたしがあなたのもとから取り去られるのをあなたが見れば、願いはかなえられる。もし見なければ、願いはかなえられない。」11彼らが話しながら歩き続けていると、見よ、火の戦車が火の馬に引かれて現れ、二人の間を分けた。エリヤは嵐の中を天に上って行った。12エリシャはこれを見て、「わが父よ、わが父よ、イスラエルの戦車よ、その騎兵よ」と叫んだが、もうエリヤは見えなかった。エリシャは自分の衣をつかんで二つに引き裂いた。13エリヤの着ていた外套が落ちて来たので、彼はそれを拾い、ヨルダンの岸辺に引き返して立ち、14落ちて来たエリヤの外套を取って、それで水を打ち、「エリヤの神、主はどこにおられますか」と言った。エリシャが水を打つと、水は左右に分かれ、彼は渡ることができた。
 15エリコの預言者の仲間たちは目の前で彼を見て、「エリヤの霊がエリシャの上にとどまっている」と言い、彼を迎えに行って、その前で地にひれ伏した。
列王記下 2章1〜15節
 32ファリサイ派の人々は、群衆がイエスについてこのようにささやいているのを耳にした。祭司長たちとファリサイ派の人々は、イエスを捕らえるために下役たちを遣わした。33そこで、イエスは言われた。「今しばらく、わたしはあなたたちと共にいる。それから、自分をお遣わしになった方のもとへ帰る。34あなたたちは、わたしを捜しても、見つけることがない。わたしのいる所に、あなたたちは来ることができない。」35すると、ユダヤ人たちが互いに言った。「わたしたちが見つけることはないとは、いったい、どこへ行くつもりだろう。ギリシア人の間に離散しているユダヤ人のところへ行って、ギリシア人に教えるとでもいうのか。36『あなたたちは、わたしを捜しても、見つけることがない。わたしのいる所に、あなたたちは来ることができない』と彼は言ったが、その言葉はどういう意味なのか。」

 37祭りが最も盛大に祝われる終わりの日に、イエスは立ち上がって大声で言われた。「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。38わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる。」39イエスは、御自分を信じる人々が受けようとしている“霊”について言われたのである。イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、“霊”がまだ降っていなかったからである。
ヨハネによる福音書 7章32〜39節

1.大地、水、人間の労働
  先週、久しぶりに電車に乗ると、水田に満々と水が引いてあるのが見えました。早朝から田んぼの手入れをしている人々の姿を見ました。わたしの子ども時代は、5月の連休と言えば、旅行や遊園地…ではありませんでした。一家で親戚の家に出かけて行き、田畑の手伝いをしました。連休には、親戚総出で何件か移動しながら、決まってきゅうりの苗を植え、翌週には大人たちが田植えをするのを見に行きました。子どもたちは子どもにできる仕事を与えられて、戯れながら一緒にいました。この季節を迎えて水をたたえた田んぼを見ると、懐かしさと共に、大地の豊かさと農業従事者の仕事の美しさに感動を覚え、何とも言えない気持ちになります。

  19世紀に活躍したオランダ人画家のフィンセント・ファン・ゴッホは、絵を書き始めた頃に夢中で農民の絵を描いていたと言われています。肖像画家になりたいという夢をもって農民たちを次々と描きました。その集大成として描かれたのが「じゃがいもを食べる人々」という絵です。農を営む家族の暗い食卓がランプの光に照らされ、人々はじゃがいもの皿を囲んでいます。一人ひとりの表情や仕草、じゃがいもから立ち上る湯気、コーヒーの深い色が印象的です。この絵を書いたゴッホは語りました。「わたしは、ランプの光のもとでじゃがいもを食べているこれらの人たちが、いま皿にのばしているその手で土を掘ったのだということを強調しようと努めたのだ。だから、この絵は<手の労働>を語っているのであり、いかに彼らが正直に自分たちの糧を稼いだかを語っているのだ。わたしは文明化した連中とはまったく違った生活方式の印象を描き表したかったのだ」(1885年4月、弟テオへの手紙)。平凡な生活をしている人々を描くことで、この世界に生きていることを証しているかのような、静かな感動がわき上がってくる絵です。わたしたちの日常生活は、大地を耕す人々に支えられています。

  田植えの季節になったのだと思い、父に電話して昔話をしながら尋ねました。「ところで田んぼの水はどこから来ているのかな?」かなりど素人な質問でしたが、父がその地域の農業用水のために作られた堰(川から水を引き入れる農業用水路)の歴史を教えてくれました。この地域は堰ができるまで、長年にわたって旱魃に苦しみ、多くの人が命を落としたのだと言います。もう400年以上も前のことで、大地に水のないことなど、今はほとんど考えません。しかし、「渇く」ことがもっとも耐えられないことであることを、農を営む人々はよく知っています。このたびの震災でも、水の不足に苦しむ人々の姿を見ています。わたしたちの記憶にも鮮明に残っています。水のないことが、どんなにわたしたちを苦しめることか。旱魃と紛争のただ中にある地域の子どもたちにとって、人間にとって、飲むことのできる澄んだ水がどんなに必要なものであるか。

2.渇き
  旧約聖書の最初の書物、創世記に天地創造の物語が描かれています。聖書は、次のように語っています。「主なる神が地と天を作られたとき、地上には野の木も、野の草も生えていなかった。主なる神が地上に雨をお送りにならなかったからである。また土を耕す人もいなかった。しかし、水が地下から湧き出て、土の面をすべて潤した」(創2:5〜6)。人が耕す前から、地の面には水が湧き出ていました。「主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった」(創2:7)と伝えられています。

  神に息吹を与えられ、人が「生きる者(ネフェシュ)」となった、とは興味深い言葉です。聖書は、人間存在を表す言葉のひとつとして「ネフェシュ」というヘブライ語を用いています。「ネフェシュ」は、他の箇所では「魂」とも訳されている言葉です。生ける人間、魂を表す「ネフェシュ」の言葉の元来の意味は「喉」です。これは、わたしたち日本人にとっては不思議なことに思えるかもしれません。「喉」など、わたしたちはかぜや花粉症にでもならない限り、意識することは少ないからです。しかし聖書の人々は、喉、すなわち、その渇きというものを潤すことに無関心ではいられませんでした。そして、この「ネフェシュ」―魂という喉―こそが、欲望の座、渇望の座であると教えられてきたのです。

  原初の楽園には、川が流れていました。エデンから一つの川が流れて園は水を湛え、さらに4つの川に分かれて大地を潤していたと伝えられています(創2:10)。この川は、地上にいのちの豊かさをもたらしていました。しかし人は、その豊かさの中で罪に陥ります。罪のゆえに楽園を追われ、その子孫は、いつの間にか荒れ野をさまよい歩く者となっていました。

  今日は、ヨハネ福音書7章の物語を聞いています。ユダヤ人の三大祭の一つ「仮庵祭」の「祭りが最も盛大に祝われる終わりの日」(37節)のことでした。「仮庵祭」は、イスラエルの救いの原体験である「出エジプト」にまつわる祭りでした。人々は庭に「仮庵」を作り、奴隷の地エジプト脱出後に荒れ野をさまよい天幕を住まいとした日々を記念しました。このお祭りは、同時に収穫の祝祭も兼ねていたそうで、1週間続くお祭りの間、大祭司が毎日人々を伴って神殿の丘のふもとにあるシロアムの池の水を金の壷で汲み、祭壇に注ぐという儀式が行われました。この儀式の中で、イザヤ書のみ言葉が繰り返し歌われました。「あなたは喜びのうちに 救いの泉から水を汲む」(イザ12:3)というみ言葉です。荒れ野をさまよった人々にとって、水の流れが涸れ果てることは、即、死を意味しました。それゆえに、出エジプトの道のりで乾いた荒れ野に水が湧き出たという奇跡を、人々は大切に語り伝えました。主イエス・キリストは、祭りで盛り上がる人々の間にいらっしゃいます。

3.神の水路は水をたたえ
  仮庵祭がクライマックスを迎えたとき、主イエスは声を張り上げて言われました。「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい」(37節)。「わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる」(38節)。「わたしを信じる人は、…彼の内部(腹)から生きた水の川が(いくつも)流れ出るだろう」という言葉です。主を信じる者は、内から生きた水があふれ外を潤すと言われます。主が招かれる声を、どれだけの人が聞いたのでしょうか。ある人が、砂漠の旅で水と塩が足りなくなって困った時に、ポケットから飛行機の機内食についてくる2 グラム入りの塩の小袋を開けたところ、遥か彼方にいたラクダの群れが猛烈な勢いで駆け寄って来たと書いていました(犬養道子)。これほどの渇きを、わたしたちは経験したことがあるでしょうか。聖書は、わたしたちの深いところにある渇き、あらゆる欲望と渇望を、激しい喉の渇きに重ねています。

  福音書記者のヨハネは、主イエスの最期について、十字架上のもっとも短い言葉を書き留めています。「渇く」(ヨハ19:28)という、たったひとことの言葉です。人間が人間であることの弱さを思い知らされるのが、渇きです。主は、肉体の弱さ、辛さを覚えられました。「渇く」という言葉は、十字架の痛みと苦悶の極みにある言葉です。十字架にかけられた犯罪人は、恥と渇きと激痛の中に放置され、長い時間をかけて死んでいきました。十字架の痛みが極みに達したとき主は、存在の深みから耐え難い「渇き」を覚えられたのです。主の十字架上の渇きは、わたしたちがこの世に生きている間に身に染みて知る渇きを共にしてくださったことを意味すると、ある人は語ります(加藤常昭)。喉の渇きだけではない肉体の渇き、食欲の渇き、性欲の渇き、金銭欲の渇き、名誉欲の渇き。「自分を少しだけでも大きく見せたい」たったこれだけの欲望が、留まることのない渇きにわたしたち貶めます。主イエスは、渇きの中にいるわたしたちのもとに来られたばかりでなく、その苦しみの中に身を置かれました。主イエスは激しい渇きの中で亡くなられました。

  ヨハネは記しています。十字架上で息を引き取られた主の「わき腹」を兵士が槍で突くと、「すぐ血と水が流れ出た」(ヨハ19:34)と。おぞましい光景です。しかし、主はこのように言われたのです。「その人の内(腹)から生きた水が川となって流れ出る」。このお言葉を語られたとき、主の見つめる先にはご自分の十字架がありました(33節)。十字架上の渇きの果てには、死があります。しかし、その痛ましい死の場所から水が流れ出ているのです。主は、渇きを通して生ける水への水路を開かれました。御自ら満々と水をたたえる水路となり、わたしたちの畝を潤されます(詩65:10〜14)。主は、十字架の死を通して、新しい天への道を開かれたのです。

祈り


〒970-8036 いわき市平谷川瀬字仲山町25
Tel/Fax 0246-21-2145
          いわき きょうかい
日本キリスト教団 磐 城 教 会
牧師 上竹 裕子
更新:2016.5.20

Copyright 2011-2013 IWAKI KYOUKAI All Rights Reserved.


inserted by FC2 system