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聖霊降臨日 ≪聖霊の賜物≫
礼拝説教

日本キリスト教団磐城教会 2016年5月15日
 1主の手がわたしの上に臨んだ。わたしは主の霊によって連れ出され、ある谷の真ん中に降ろされた。そこは骨でいっぱいであった。2主はわたしに、その周囲を行き巡らせた。見ると、谷の上には非常に多くの骨があり、また見ると、それらは甚だしく枯れていた。3そのとき、主はわたしに言われた。「人の子よ、これらの骨は生き返ることができるか。」わたしは答えた。「主なる神よ、あなたのみがご存じです。」4そこで、主はわたしに言われた。「これらの骨に向かって預言し、彼らに言いなさい。枯れた骨よ、主の言葉を聞け。5これらの骨に向かって、主なる神はこう言われる。見よ、わたしはお前たちの中に霊を吹き込む。すると、お前たちは生き返る。6わたしは、お前たちの上に筋をおき、肉を付け、皮膚で覆い、霊を吹き込む。すると、お前たちは生き返る。そして、お前たちはわたしが主であることを知るようになる。」
 7わたしは命じられたように預言した。わたしが預言していると、音がした。見よ、カタカタと音を立てて、骨と骨とが近づいた。8わたしが見ていると、見よ、それらの骨の上に筋と肉が生じ、皮膚がその上をすっかり覆った。しかし、その中に霊はなかった。9主はわたしに言われた。「霊に預言せよ。人の子よ、預言して霊に言いなさい。主なる神はこう言われる。霊よ、四方から吹き来れ。霊よ、これらの殺されたものの上に吹きつけよ。そうすれば彼らは生き返る。」
 10わたしは命じられたように預言した。すると、霊が彼らの中に入り、彼らは生き返って自分の足で立った。彼らは非常に大きな集団となった。
 11主はわたしに言われた。「人の子よ、これらの骨はイスラエルの全家である。彼らは言っている。『我々の骨は枯れた。我々の望みはうせ、我々は滅びる』と。12それゆえ、預言して彼らに語りなさい。主なる神はこう言われる。わたしはお前たちの墓を開く。わが民よ、わたしはお前たちを墓から引き上げ、イスラエルの地へ連れて行く。13わたしが墓を開いて、お前たちを墓から引き上げるとき、わが民よ、お前たちはわたしが主であることを知るようになる。14また、わたしがお前たちの中に霊を吹き込むと、お前たちは生きる。わたしはお前たちを自分の土地に住まわせる。そのとき、お前たちは主であるわたしがこれを語り、行ったことを知るようになる」と主は言われる。
エゼキエル書 37章1〜14節
 1五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、2突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。3そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。4すると、一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。
 5さて、エルサレムには天下のあらゆる国から帰って来た、信心深いユダヤ人が住んでいたが、6この物音に大勢の人が集まって来た。そして、だれもかれも、自分の故郷の言葉が話されているのを聞いて、あっけにとられてしまった。7人々は驚き怪しんで言った。「話をしているこの人たちは、皆ガリラヤの人ではないか。8どうしてわたしたちは、めいめいが生まれた故郷の言葉を聞くのだろうか。9わたしたちの中には、パルティア、メディア、エラムからの者がおり、また、メソポタミア、ユダヤ、カパドキア、ポントス、アジア、10フリギア、パンフィリア、エジプト、キレネに接するリビア地方などに住む者もいる。また、ローマから来て滞在中の者、11ユダヤ人もいれば、ユダヤ教への改宗者もおり、クレタ、アラビアから来た者もいるのに、彼らがわたしたちの言葉で神の偉大な業を語っているのを聞こうとは。」
使徒言行録 2章1〜11節

1.主イエスの赦しと祝福
  ペンテコステの朝を迎えました。聖壇の敷布は、ペンテコステの典礼色≪赤≫です。炎のような聖霊を表す≪赤≫です。年に一度ガウンに赤いストールをすると、「すてきね」と褒められたりします。「年に一度ではもったいない」と言われたりもします。わたしも、年に一度、皆さんが赤を身につけて礼拝に備えてくださるのが楽しみです。この日を特別に憶えて、遠方からおいでくださる姉妹兄弟があります。ペンテコステ(聖霊降臨日)は、クリスマスやイースターに並ぶ、教会のもっとも大きなお祭りのひとつです。

  主イエス・キリストは、クリスマスにお生まれになり、30歳で宣教活動を始められました。しかし、その数年後には、人々の反対を受け、もっとも身近にいた者たちにも裏切られて十字架におかかりなります。主イエスは、十字架の上で死なれ、3日後に復活されました。教会は、イースター(復活日)に始まる復活節の7週間を歩んでまいりました。主イエスは、ご復活の後40日にわたって弟子たちの間に姿を顕され、弟子たちが見ている前で、天に上げられました。今日の使徒言行録の著者でもあるルカは、彼のもうひとつの書物である福音書を主イエスの昇天の記事で閉じています。主は天に昇られる前に、このように言われたのでした。「わたしは、父が約束されたものをあなたがたに送る。高い所からの力に覆われるまでは、都にとどまっていなさい」(ルカ24:49)。

  主イエスは、両手をあげて弟子たちを「祝福しながら」(ルカ24:51)、天に昇られました。わたしは牧師としていつも礼拝の最後に主の祝福を取り次ぎながら、いろいろなことを思います。主は両手を上げたままでお疲れにならなかったのでしょうか。福音書記者のルカは、この主イエスの限りない祝福の余韻をもって福音書を結びました。弟子たちが最後に見た復活の主は、いつまでも両手を広げたまま祝福されるお姿でした。ルカは、ここで筆を止めるわけにはいきませんでした。第二の物語として、使徒言行録を記します。

  主イエスの昇天の後、主を売り渡したイスカリオテのユダを除いた11人の使徒たちは、エルサレムのある家の2階の部屋に集まっていました。この部屋には、「婦人たちやイエスの母マリア、またイエスの兄弟たち」(使1:14)がいたと言われています。さらに主イエスを知る120人ほどの人たちが集まって来ていました。何のために、でしょうか。「心を合わせて熱心に祈っていた」(使1:14)のです。きれい事では説明できません。十字架を前に主イエスを裏切って逃げ去った弟子たちは、どうして母親のマリアに顔を向けることができたのでしょうか。マリアは、我が子を裏切った弟子たちとひとつの部屋に入ることができたのでしょうか。自分の子を、父を、母を、死に追いやった人たちを赦すことができるでしょうか。この場所で一緒に祈ることができたのでしょうか。彼らは、しかし、現にそうしたのです。

2.共なる祈り
  「心を合わせて熱心に祈り」、彼らは待っていました。人間的に考えたら決して赦すことのできない人がいるけれども、主イエスがまずわたしたちを赦してくださり、赦し合うことへと招き入れてくださるのです。兄弟姉妹は悔い改め、互いに赦し合い、「心を合わせて熱心に祈り」、主が約束されたものを待ちました。わたしたちの間で、祈りは十分でしょうか。わたしたちは、心を合わせて祈る共同体となりえているでしょうか。わたしたちの間で、赦しは十分でしょうか。赦していない人がいないだろうか? このような問いが投げかけられます。初代キリスト者たちの全存在をかけた祈りが見えます。このような場所に、ペンテコステは起こります。このような場所に、新しい共同体、教会が誕生します。

  五旬祭の日がやって来ました。今日の使徒言行録2章は、「五旬祭の日が来た」(1節)と始まっています。「五旬祭の時が満ちたthe day of Pentecost was fully come」(KJV)と訳している聖書もあります。ついに時が満ち、決定的な日がやって来たのです。「ペンテコステ」とは、聖書のギリシャ語で「50」を意味します。ペンテコステは「イースターから数えて50日目」ですが、キリスト教のオリジナルの祝祭ではなく、もともとはユダヤ教の「五旬祭」の日でした。このお祭りは、イスラエルの歴史の中から生まれました。この日は、イスラエルの人々にとって、神がイスラエルに律法を授与されたことを記念する特別な祝祭日でした。この日には、歴史の中でさまざまな地域に散らされていった多くのユダヤ人が、エルサレムへと集結しました。

  主を信じる人々は、この日もエルサレムの家で「一つになって」(1節)祈っていました。わたしたちの教会の原点がここにあります。教会は、その誕生のときから祈る群れでした。一同に集うこと、心を合わせて祈ることを中心に据えていました。しかし、教会が教会として立つためには、もうひとつのことが不可欠だったのです。その日、弟子たちが集まっていると、突然、激しい風が吹いて来る音が聞こえて、家中に響きわたりました。すさまじい轟音は、一つになっていた群れを覆います。群れの中の一人ひとりの上に、「炎のような舌」が現れます。「一同は聖霊に満たされ、霊≠ェ語らせるままに、ほかの国々の言葉で話し」(4節)出しました。

  これを聞いた人々は、尋常でなく驚きました。そこにいた主イエスの弟子たちは、皆ガリラヤ地方の人たちでしたから、他の国の言葉を知っているはずもありません。今でこそ世界中の観光客が訪れる人気スポットですが、当時ガリラヤ地方には、外国語を知っている人などほとんど皆無ではなかったでしょうか。弟子たちは、聖霊に満たされると、別人にでもなったように語り始めます。自らの舌によってではなく、聖霊の舌によって、聖霊のお与えになる言葉によって語り始めるのです。

3.聖霊の賜物
  兄弟姉妹を変えたのは、復活の主との出会いでした。彼らは主の赦しを知って、主に立ち帰りました。社会的に厳しい状況は何も変わっていないにもかかわらず、彼らは悔い改めて互いに赦し合い、熱心に祈りました。初代教会の祈りの求心力は目を見張るものがあり、わたしたちを激励します。しかし聖書は、人間の熱心によって築くことのできる一致の限界を、暗に示しているように思います。わたしたちは、どうしても頑固な思考や固定観念に囚われてしまうので、自ら変わることを願っても、古い自分を捨てて新しい人となることは、簡単ではありません。教会が、新しい共同体として生まれ変わることは、わたしたちの意志でなしうることではないのです。兄弟姉妹は、熱心に「一つになって」集まっていました。しかし、まだ教会は生まれてはいませんでした。真に新しく生まれるには、別の力が必要でした。

  今日の旧約聖書のエゼキエル書37章には、預言者エゼキエルが見た「枯れた骨」の幻が語られています。エゼキエルが「見ると、谷の上には非常に多くの骨があり、また見ると、それらは甚だしく枯れていた」(エゼ37:2)。甚だしく枯れた屍は、極度に渇き、疲弊した人々の姿を表しています。主は、エゼキエルに問われます。「これらの骨は生き返ることができるか?」(37:3)と。エゼキエルは、「できます」とは言えません。ただ「あなたのみがご存じです」と答えます。

  エゼキエルは、神の民がもっとも困難な捕囚期を歩む時代に召された審判預言者のひとりです。神の民が陥っている罪を説き、悔い改めて神に立ち帰るよう迫りました。預言者の説教を聞く人々が、み言葉を正しく聞き、素直に受け入れることができたかと言えば、そうはいきませんでした。人々の落胆は深く、礼拝は希望のないお葬式のようでした。まるで墓穴に向かって語るようでした。枯れた骨に向かって、熱心に悔い改めを説いたところで何になるでしょう。骨は骨です。どうして葬られた者が生きることができるでしょうか。エゼキエルは、民が生き返る、とは言えなかったのです。

  しかし、主御自らが枯れた骨に語りかけられます。「見よ、わたしはお前たちの中に霊を吹き込む。すると、お前たちは生き返る」(37:5)。すると、カタカタと音がして、骨と骨とが近づき、主の声がします。「霊よ、これらの殺されたものの上に吹きつけよ。そうすれば彼らは生き返る」(37:9)。主の霊が彼らの中に降り注ぐと、彼らは生き返ります。このことを大胆にも「神の回心」と語った人がいます(W.ブルッゲマン)。わたしたちが回心し、変わることを迫られているのに、それも不可能な時に、神御自らが変わられるのです。身動きが取れなくなっている者に、命の息吹が吹き込まれます。新しく歩むことなどできないと思っている群れに聖霊が降り、新しい共同体とされます。わたしたちは、聖霊によって新しいヴィジョンを与えられ、共に主のみ業を語り出す教会とされるのです。

祈り


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          いわき きょうかい
日本キリスト教団 磐 城 教 会
牧師 上竹 裕子
更新:2016.5.20

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