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三位一体主日 ≪真理の霊≫
礼拝説教

日本キリスト教団磐城教会 2016年5月22日
12手のひらにすくって海を量り
 手の幅をもって天を測る者があろうか。
 地の塵を升で量り尽くし
 山々を秤にかけ
 丘を天秤にかける者があろうか。
13主の霊を測りうる者があろうか。
 主の企てを知らされる者があろうか。
14主に助言し、理解させ、裁きの道を教え
 知識を与え、英知の道を知らせうる者があろうか。

15見よ、国々は革袋からこぼれる一滴のしずく
 天秤の上の塵と見なされる。
 島々は埃ほどの重さも持ちえない。
16レバノンの森も薪に足りず
 その獣もいけにえに値しない。
17主の御前に、国々はすべて無に等しく
 むなしくうつろなものと見なされる。
イザヤ書 40章12〜17節
 11しかし、神の人よ、あなたはこれらのことを避けなさい。正義、信心、信仰、愛、忍耐、柔和を追い求めなさい。12信仰の戦いを立派に戦い抜き、永遠の命を手に入れなさい。命を得るために、あなたは神から召され、多くの証人の前で立派に信仰を表明したのです。13万物に命をお与えになる神の御前で、そして、ポンティオ・ピラトの面前で立派な宣言によって証しをなさったキリスト・イエスの御前で、あなたに命じます。14わたしたちの主イエス・キリストが再び来られるときまで、おちどなく、非難されないように、この掟を守りなさい。15神は、定められた時にキリストを現してくださいます。神は、祝福に満ちた唯一の主権者、王の王、主の主、16唯一の不死の存在、近寄り難い光の中に住まわれる方、だれ一人見たことがなく、見ることのできない方です。この神に誉れと永遠の支配がありますように、アーメン。
テモテへの手紙一 6章11〜16節

1.つくられたもの
  先日、幼稚園の園足で小名浜の水族館に出かけて「クラカケアザラシ」というめずらしいアザラシを見ました。黒い体に鞍をかけたような白い帯模様が入っていることから「クラカケアザラシ」という名前なのだそうです。だれかこの子の寝ている間に落書きした?と思うような、なんともユーモラスでかわいらしい模様の海獣です。この模様を見ながら、「かわいい!」と連呼して釘づけになっている子どもたちもあれば、思わず噴き出している大人もいます。クラカケアザラシに失礼ですよね。クラカケアザラシは研究半ばのアザラシで、現在は国内でも小名浜でしか飼育されていないそうです。だれかが描いたとしか思えない模様は、見れば見るほど不思議です。水族館で何億年も前から存在するというオウムガイに出会ったとき、また普段決して目にすることのない深海の世界を見たとき、神を思います。

  18世紀のある神学者はこのように言いました。もしだれかが野原を歩いていて、地面に落ちていた懐中時計を見つけたとすれば、その時計の複雑な構造を見て、自然の力―石や花や草の力―によってではなく、知的設計者によって作られたものと理解するだろう。時計は、規則的な運動によって正確に時間を知らせるために製作された。同様に、宇宙も、目的をもった知的設計者の産物である、と(ウィリアム・ペイリー)。ペイリーの著作は、かのチャールズ・ダーウィンにも影響を与えたと言われています。ペイリーは、アイザック・ニュートンが発見した「万有引力」という自然の規則性に感銘を受けたひとりです。ある人々にとって、宇宙の規則性は、神がもはや必要ではないことを意味しました。神なしでも、宇宙は完全に機能すると思われたのです。しかし、ペイリーはこの宇宙の精巧なメカニズムこそが、卓越した考案者を示唆していると説明しました。

  アメリカのある女の子が手紙を書きました。「かみさま あなたは きりんを ほんとに あんなふうに つくりたかったの? それとも あれは なにかの まちがいですか? ノーマ」(『かみさまへのてがみ』谷川俊太郎訳)。子どもだから許されますが、きりんに失礼ですね。「失礼」と言いながら、わたし自身も理解しがたいと感じている生物はいっぱいいます。

  聖書は語りかけます。「手のひらにすくって海を量り 手の幅をもって天を測る者があろうか。地の塵を升で量り尽くし 山々を秤にかけ 丘を天秤にかける者があろうか」(イザ40:12)。わたしたちには、知る由もありません。「主の霊を測りうる者があろうか。主の企てを知らされる者があろうか。主に助言し、理解させ、裁きの道を教え 知識を与え、英知の道を知らせうる者があろうか。見よ、国々は革袋からこぼれる一滴のしずく 天秤の上の塵と見なされる。島々は埃ほどの重さも持ちえない」(イザ40:13〜15)。

2.神を信じるということ
  「神」はいる。「神」はたしかに存在する。クリスチャン人口が少ない日本でも、そのように信じている人たちは少なくありません。教会の近所でも少し山になっているところに行けば、ほこらのようなものを見つけます。だれかが「ここに神がいる」と思って立てたのでしょう。しかし、「神」がどのようなお方であられるのかということは、被造世界を通して「神」の存在を感じるだけでは見えません。水族館に出かけていき、あるいは山の奥深くに入って行き、聖なるものに出会ったとしても、「神」がいったいだれであるのか深く知ることはできません。

  教会が神を信じると告白するとき、神がいる、と言っているのではないはずです。遠距離恋愛で、「わたしは彼を信じる」と言うときに、彼女は恋人の生存を信じているというのではありません。彼が彼女との関係を守る人であるのか、彼の人格を知り、彼自身を信頼しているのです。同じように、わたしたちは、神の存在を知っているというばかりでなく、信じ、この方に信頼しています。もちろん、信仰の入り口は、神の存在を知ることですが、わたしたちが教会に毎週集うのは、「神がいる」からという理由だけでは不十分です。ここに集うわたしたちは、もっと深いレベルで神との関係を深めるために、共に聖書を開いているのです。聖書が開かれなければ、わたしたちが神を深く知り、この方に信頼することはできません。

  教会の暦では、今日はペンテコステ(聖霊降臨祭)に続く次の日曜日≪三位一体主日≫です。「三位一体」は、父、子、聖霊という3つの位格(ペルソナ)を持つ唯一の神を表します。「ペルソナ」というラテン語は、英語のperson(人、人格)の語源で、もともとは劇において役者が用いた「仮面」を指しました。3つの仮面を持つただおひとりの神をわたしたちは信じ、日曜日ごとに告白しています。「我は天地の造り主、全能の父なる神を信ず」、「我はその独り子、我らの主、イエス・キリストを信ず」、「我は聖霊を信ず」と告白しています(「使徒信条」)。

  神のご計画は、旧約聖書の天地創造からクリスマスに至ります。わたしたちにみ子イエス・キリストが与えられました。そして今や、わたしたちに聖霊が与えられました。わたしたちは、父、子、聖霊なる三位一体の神を信じます。「三位一体」は、神御自らが「交わり」の存在であることを示しています。相互に愛し合い、仕え合う三位一体の神の交わりの中に、わたしたちは招かれているのです。

  さて、今日ご一緒に聞いています新約聖書「テモテへの手紙」は、「牧会書簡」と呼ばれ、他の多くの書簡と異なる性質を持っています。教会に宛てられたものというよりは、教会の羊飼いに宛てて書かれたものです。手紙の著者は「神の人よ」(11節)と呼びかけて、徳目を説きます。「正義、信心、信仰、愛、忍耐、柔和を追い求めなさい」

3.新しい召し
  「神の人」に向けて、教会の羊飼いに向けて語られている言葉です。ところで、今月幼稚園の子どもたちは次の聖句を暗唱しています。「わたしは良い羊飼いである」(ヨハ10:11)という主イエスのお言葉です。先週、幼稚園の先生方と今年度初めての聖書研究をしました。新卒の先生たちが、羊飼いと羊の関係が子どもと保育者の関係に通じていることに感じて興味深かったと感想を話してくださいました。聖研が終わった後職員室に戻って、ひとりの先生が質問してくださいました。「わたしは羊だと思っていましたが、羊飼いということなのですか?」と聞いてくださいました。これはとても大切な問いだと思います。

  わたしたちがここにいるのは、神が招いてくださったからです。自分の意志で教会に来ていると思うときにも、神は、わたしたちが教会に来ることを妨げるさまざまな石を取り除いてくださっています。わたしたちは神の庭に憩うようにと招かれた羊の群れです。旧約の詩人は歌いました。「主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない。主はわたしを青草の原に休ませ 憩いの水のほとりに伴い 魂を生き返らせてくださる」(詩23:1〜3)。主イエスは、十字架におかりになる前に言われました。「わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる」と。しかし、主イエスは、ご復活の後に弟子のペトロに言われました。「わたしの羊を飼いなさい」(ヨハ21:17)と。主の十字架を前にして3度も主を知らないと言ったペトロに、主は3度、「わたしの羊を飼いなさい」(ヨハ21:15,16,17)と言われたのです。このときペトロは新しく召し出されました。わたしたちは羊だと思っていたのに、羊飼いに、新たに召される時が来ます。

  今日の手紙は呼びかけています。「正義、信心、信仰、愛、忍耐、柔和を追い求めなさい」。この言葉は、「神はいる」とぼんやりと感じている人に向けられているのではありません。神を信じ、神への深い信頼に入った人に、わたしたちに、呼びかけられているのです。「信仰の戦いを立派に戦い抜き、永遠の命を手に入れなさい。命を得るために、あなたは神から召され、多くの証人の前で立派に信仰を表明したのです」(12節)とあります。

  神を信じて生きる者には、神の召命という決定的な時が与えられます。この時、わたしたちは証人たちが見守る前で信仰を告白し、洗礼を受けます。キリスト者となります。キリスト者は、自己完結する者ではなく、いわば「パン種」です。練り粉全体を膨らませる役割があるのです(マタ13:33)。それゆえ「正義、信心、信仰、愛、忍耐、柔和を追い求めなさい」と呼びかけられます。どれも容易ではないことのように思えます。しかし、主が約束された「真理の霊」(ヨハ16:13)がいつもわたしたちの内にあり、わたしたちを内側から励まし、豊かなの実を結ぶものとしてくださるのです。

祈り


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          いわき きょうかい
日本キリスト教団 磐 城 教 会
牧師 上竹 裕子
更新:2016.6.14

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