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聖霊降臨節第4主日 ≪信仰の道≫
礼拝説教

日本キリスト教団磐城教会 2016年6月5日
1 わたしは歩哨の部署につき
 砦の上に立って見張り
 神がわたしに何を語り
 わたしの訴えに何と答えられるかを見よう。
2 主はわたしに答えて、言われた。
 「幻を書き記せ。
 走りながらでも読めるように
 板の上にはっきりと記せ。
3 定められた時のために
 もうひとつの幻があるからだ。
 それは終わりの時に向かって急ぐ。
 人を欺くことはない。
 たとえ、遅くなっても、待っておれ。
 それは必ず来る、遅れることはない。
4 見よ、高慢な者を。
 彼の心は正しくありえない。
 しかし、神に従う人は信仰によって生きる。」
ハバクク書 2章1〜4節
22偽り者とは、イエスがメシアであることを否定する者でなくて、だれでありましょう。御父と御子を認めない者、これこそ反キリストです。23御子を認めない者はだれも、御父に結ばれていません。御子を公に言い表す者は、御父にも結ばれています。24初めから聞いていたことを、心にとどめなさい。初めから聞いていたことが、あなたがたの内にいつもあるならば、あなたがたも御子の内に、また御父の内にいつもいるでしょう。25これこそ、御子がわたしたちに約束された約束、永遠の命です。
 26以上、あなたがたを惑わせようとしている者たちについて書いてきました。27しかし、いつもあなたがたの内には、御子から注がれた油がありますから、だれからも教えを受ける必要がありません。この油が万事について教えます。それは真実であって、偽りではありません。だから、教えられたとおり、御子の内にとどまりなさい。

 28さて、子たちよ、御子の内にいつもとどまりなさい。そうすれば、御子の現れるとき、確信を持つことができ、御子が来られるとき、御前で恥じ入るようなことがありません。29あなたがたは、御子が正しい方だと知っているなら、義を行う者も皆、神から生まれていることが分かるはずです。
ヨハネの手紙一 2章22〜29節

1.油のしるし
  聖書の指し示す「油」とは、何であるでしょうか。「いつもあなたがたの内には、御子から注がれた油があります」(27節)と聖書は語りかけます。油はわたしたちの生活の中で、もっとも身近なもののひとつです。教会の庭の柿の木に新芽が出ているのを見ると、おいしそうだなと思ってしまいます。山にあるただの葉っぱも衣をつけてさっと揚げれば、ごちそうになります。昔の人の知恵はすばらしいと思います。どれくらい昔から、油は人々の暮らしと共にあったのでしょうか。

  聖書の時代の人々にとっても、油は欠かすことのできないものでした。料理ばかりでなく、ランプに火をともしたり、傷に塗ったり、さまざまの用途がありました。しかし、油のもっとも重要な役割は、宗教的なものでした。旧約聖書の言語のヘブライ語で「油」という言葉は、「光沢のあるもの」といった意味合いを持つそうです。油の特有の輝きは、喜びや充実、荘厳さやしなやかさを象徴し、それゆえに聖霊や信仰のシンボルとされました。

  「いつもあなたがたの内には、御子から注がれた油があります」。「この油が万事について教えます」(27節)と聖書は語ります。ここで「油」と言われている言葉は、新約聖書のギリシャ語で「クリスマ」という言葉です。「油注ぎ」という意味の言葉です。「クリスマ」は、単なる機能としての油ではなく、祭儀の中で注がれる油です。油を注がれる主体は、御子キリストです。

  油を注ぐという行為は、聖書において、きわめて重要な意味を持ちます。油を注がれるとき、その人は聖霊の注ぎを豊かに受けた者、他の何者にも侵されない存在とされるからです。祭司や王の聖別の儀式では、その人の頭に、輝く油が注がれました。王は、角に入った油が注がれ、「メシア」(ヘブライ語で「油注がれた者」の意味)と呼ばれました。古代教会は、キリスト者となる洗礼の儀式の一部として、水の洗いに加えて、油を塗りました。キリストを信じる者には、洗礼の後、油によって十字のしるしがつけられました。キリストの使徒パウロも、初期の教会に向けた手紙の中で、次のように記しています。「わたしたちに油を注いでくださったのは、神です。神はまた、わたしたちに証印を押して、保証としてわたしたちの心に霊≠与えてくださいました」(Uコリ1:21b~22)。キリスト者の原点がここにあります。

  手紙の著者であるヨハネは、逆境の中、心が騒いでいる者たちに向けて語ります。「初めから聞いていたことを心にとどめなさい」(24節)。「教えられたとおり、御子の内にとどまりなさい」(27節)と。ヨハネは繰り返して語ります。「子たちよ、御子の内にいつもとどまりなさい」(28節)。「とどまる」という言葉は、ヨハネが特に好んで用いている言葉です。ヨハネは、その福音書の中で、主イエスの次の言葉を書き留めています。「わたしの愛にとどまりなさい」(ヨハ15:9)。主イエス御自らが、「わたしにとどまりなさい」と繰り返し呼びかけられるのです。

2.洗礼とそれから
  夫婦のカウンセリングをしているというある牧師と話をしていて感じたことがあります。牧師は結婚式の司式をする場合、夫婦となるふたりと準備のときを持ちます。結婚してしまえば、夫婦の問題に教会や牧師が関わることは多くはありません。しかし、結婚カウンセリングは、結婚して時間が経った夫婦に必要とされているのではないか。このことは、洗礼についても言えることです。洗礼を受けた後、結婚生活に入った後、出会う問題の方がより重要であるからです。洗礼を受ける前の問題が重要でないというわけではありません。

  結婚するときには「誓いますか?」と問われ、結婚したければ「誓います」と答えます。洗礼を受けるときには「信じますか?」と問われ、「信じます」と答えます。しかし、その生活の中に入っていくとき、「信じます」、「誓います」といった「イエス」の答えだけでは担いきれない問題が生まれてくるのです。「信じます。でも…」とか、「誓います。しかし…」とかという状況に、わたしたちは必ず出会わされるでしょう。「夫を愛していますか」と聞かれたら、「イエス」なのですが、でも、問題は繰り返し押し寄せてきます。「神を愛していますか」と聞かれたら、ここに集う多くの方が「はい」と答えるでしょう。しかし、ここからが問題なのです。

  夫婦関係のトラブルの場合、「あなたのその言葉が相手を傷つけているのです」とか、「これからはこんな風に言ってみてください」とかといった助言は、一見魔法の言葉のように見えます。しかし、カウンセラーの助言が応急処置になっても、それだけではやはり不十分なように思います。問題は、多くの場合もっと複雑で時間がかかるからです。信仰生活も同じように、問題は小手先のことで解決するものではありません。よい助言を受けたとき、わたしたちはそれをすぐにでも実行しようと決心します。実行に移すことで達成感や充足感を得ることができます。けれども、どんなに情熱を傾けていることでも、しばらくするとその熱が冷めていきます。情熱が失せると次第に面倒になっていき、いつの間にか苦痛にさえ感じるようになります。そうなれば、決心を投げ出してしまうのに時間はかかりません。

  自ら決めた何かを投げ出すことは、自分自身の一部を放棄することだと言っていた人がいます。4世紀に砂漠や荒れ野に入って修道生活を送った隠修士と呼ばれる人たちがいます。その指導者のひとりであったポイメンという人は、投げやりになった若い修道者に向かって、このように言いました。「手仕事を始めたのに、それに必要な技術を学ぼうとしないのは、何の意味があるのですか?」と。ひとつの決心を始めたならば、それを続けるための技術が必要なのです。この技術は一朝一夕に身につけられるものではありません。蒔かれた種が芽を出し、根を下ろすまでに時間がかかるのと同様、時間をかけてその場所に「とどまる」ことが大切なのです。

3.わたしの内にとどまりなさい
  毎週水曜日に、この礼拝堂で、幼稚園の子どもたちと共に礼拝をしています。木曜日には、保護者のための<バイブル・カフェ>という時間を持っています。子どもの礼拝で語られたのと同じ聖書の話を、親御さんと一緒に分かち合っています。先週は、主イエスが弟子たちを召し出される場面でした。ガリラヤ湖で漁師をしていたペトロと兄弟アンデレのもとに主イエスが来られてこう言われます。「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」(マタ4:19)。そのとき、「二人はすぐに網を捨てて従った」(4:20)とあります。彼らは「すべてを捨ててイエスに従った」(ルカ5:11)と報告している福音書もあります。

  子どもたちはこの物語に素直に耳を傾けています。常識のある大人はしかし、ここで立ち止まります。「すべてを捨てて」って! なぜ弟子たちにはそんなことができたのかと疑問に思います。もしかしたら主イエスの噂くらいは聞いていたのかもしれません。ルカ福音書によれば、この湖のほとりで、大勢の人々を前にして、主は教えられました。さらに主は漁師であるペトロたちが見ている目の前で、大漁の奇跡を行われます。これには彼らも驚愕しました。そのお力に恐怖さえ覚えました。それにしても、いま出会ったばかりの全貌の知れない人に、「すべてを捨てて」従うなんて狂気じみてはいないですか。理屈をいくら考えてもわからないことです。

  もうひとつわからないことがあります。なぜ主イエスが、このどこの馬の骨とも知れない漁師たちを弟子にされるのかということです。皆さんが主イエスだったら、ペトロのような人に声をかけたでしょうか。わたしなら否です。でも、主はそうされたのです。主は、弟子たちのことをよく知らなかったので、人選を失敗したのでしょうか。そうではありません。主は、ペトロのことも他の弟子たちのことも、だれよりもよくご存知でした。わたしたちが主イエスに従うというときに、必要なことは、わたしがこの方をどれだけ知っているかではなく、この方がわたしを知っているということなのです。本当にわたしのことを知っている方に出会ったなら、この方に安心してついて行くことができます。この方のところに憩い、この方のもとにとどまることができます。

  ところが、問題が起こります。弟子たちは問題を前にして、主のもとにとどまることができなかったのです。十字架という最大の問題を前にして、主を裏切り、逃亡しました。わたしたちもまた自分がどのような者であるのか、わからなくなることがあります。主から逃げ出してしまうのではないかと思うことがあります。しかし、主は復活されて、ご自分のもとにとどまり続けることができなかった弟子たちのもとに来られ、再び召されるのです。弟子たちの油を確かなものとされるのは主です。油注ぎを受けた者が、他の何者にも侵されることがないことを証しされるのは、復活の主です。主は言われます。「わたしの内にとどまりなさい」と。

祈り


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Tel/Fax 0246-21-2145
          いわき きょうかい
日本キリスト教団 磐 城 教 会
牧師 上竹 裕子
更新:2016.6.14

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