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聖霊降臨節第5主日 ≪天のエルサレム≫
礼拝説教

日本キリスト教団磐城教会 2016年6月12日
1 終わりの日に
 主の神殿の山は、山々の頭として堅く立ち
 どの峰よりも高くそびえる。
 もろもろの民は大河のようにそこに向かい 
2 多くの国々が来て言う。
 「主の山に登り、ヤコブの神の家に行こう。
 主はわたしたちに道を示される。
 わたしたちはその道を歩もう」と。
 主の教えはシオンから
 御言葉はエルサレムから出る。
3 主は多くの民の争いを裁き
 はるか遠くまでも、強い国々を戒められる。
 彼らは剣を打ち直して鋤とし
 槍を打ち直して鎌とする。
 国は国に向かって剣を上げず
 もはや戦うことを学ばない。

4 人はそれぞれ自分のぶどうの木の下
 いちじくの木の下に座り
 脅かすものは何もないと
 万軍の主の口が語られた。
5 どの民もおのおの、自分の神の名によって歩む。
 我々は、とこしえに
 我らの神、主の御名によって歩む。
6 その日が来れば、と主は言われる。
 わたしは足の萎えた者を集め
 追いやられた者を呼び寄せる。
 わたしは彼らを災いに遭わせた。
7 しかし、わたしは足の萎えた者を
 残りの民としていたわり
 遠く連れ去られた者を強い国とする。
 シオンの山で、今よりとこしえに
 主が彼らの上に王となられる。
ミカ書 4章1〜7節
 18‐19あなたがたは手で触れることができるものや、燃える火、黒雲、暗闇、暴風、ラッパの音、更に、聞いた人々がこれ以上語ってもらいたくないと願ったような言葉の声に、近づいたのではありません。20彼らは、「たとえ獣でも、山に触れれば、石を投げつけて殺さなければならない」という命令に耐えられなかったのです。21また、その様子があまりにも恐ろしいものだったので、モーセすら、「わたしはおびえ、震えている」と言ったほどです。22しかし、あなたがたが近づいたのは、シオンの山、生ける神の都、天のエルサレム、無数の天使たちの祝いの集まり、23天に登録されている長子たちの集会、すべての人の審判者である神、完全なものとされた正しい人たちの霊、24新しい契約の仲介者イエス、そして、アベルの血よりも立派に語る注がれた血です。
 25あなたがたは、語っている方を拒むことのないように気をつけなさい。もし、地上で神の御旨を告げる人を拒む者たちが、罰を逃れられなかったとするなら、天から御旨を告げる方に背を向けるわたしたちは、なおさらそうではありませんか。26あのときは、その御声が地を揺り動かしましたが、今は次のように約束しておられます。「わたしはもう一度、地だけではなく天をも揺り動かそう。」27この「もう一度」は、揺り動かされないものが存続するために、揺り動かされるものが、造られたものとして取り除かれることを示しています。28このように、わたしたちは揺り動かされることのない御国を受けているのですから、感謝しよう。感謝の念をもって、畏れ敬いながら、神に喜ばれるように仕えていこう。29実に、わたしたちの神は、焼き尽くす火です。
ヘブライ人への手紙 12章18〜29節

1.神の国という出来事
  先週、函館の教会の皆さまが、ボランティア・ツアーの合間にわたしたちの教会をご訪問くださいました。この訪問がわたしたちにとって特別だったのは、春に函館へ送り出した姉妹がこの教会のツアーに乗って帰って来られたということです。この機会を得て、春に埼玉に転居した姉妹もお仲間を連れていわきに帰って来てくださいました。初めて出会う姉妹兄弟、久しぶりの姉妹兄弟を迎えて夕食を共にしました。この会はどんな会なのだろう?と不思議な思いにとらわれました。急な計画だったので、こちらの方でもきちんと準備ができたわけでもなく、参加できたメンバーも限られてしまい残念な思いをされた方もあったと思います。それでも、できる範囲でやってよかったなと感じました。

  わたしたちは毎日の暮らしの中で、礼拝に出かけてきます。礼拝のための特別の奉仕を担っている人たちがいます。毎週、必ずこの席に座るという方もいます。今日は礼拝後に役員会がありますから、役員のメンバーの中ではいろいろ準備をして、あるいは、少し落ち着かないような気持ちで座っている方もあるかもしれません。どれも貴い礼拝習慣です。でも、わたしたちが、今この礼拝に驚きを失ってしまったら、もったいないことだと思います。この礼拝に出席できない姉妹、兄弟があることが、わたしたちの祈りとならなければ、礼拝の喜び、驚きは失われてしまうのではないでしょうか。

  今日は、オルガニストのいないわたしたちの教会に、月に一度、奏楽奉仕者を迎える日曜日です。奏楽者に同行しサポートしてくださる諸兄姉も迎えています。礼拝に訪問者を迎えるとき、わたしたちは、この場所がどういう場所なのかということに気づかされます。谷川瀬仲山町に、53年前に建てられた単なる木造の家ではないことに気づかされます。いつも通りの朝食を食べて、いつもと似たような服を来て、いつもの道を通って、今日も無事にいつも通りの礼拝に…ということではないのです。ときどき、こう祈られる方があります。「無事礼拝を終えることができて感謝です」。「無事」とは、よいことのようですが、しかし、「何もなかった」という「無事」ならば、やはり何か足ないように思います。ここは、神と出会う場所なのですから。

  神と出会う場所で、わたしたちは神の家族に出会います。家族という言葉は、なんとなく一緒にいると居心地のよい「家族団らん」のようなものではありません。「わたしはあなたのことが好きだから、あなたもわたしのことを好きになってくれればうれしい」とか、そういう曖昧な、感情的な集団ではありません。わたしたちは、キリストの十字架の「血」による家族です。キリストが十字架で死なれたのは、このわたしのため、そして共に座っている姉妹、兄弟のためです。初めて出会う兄姉も、久しぶりに再会する兄姉も、ここに集められるとき、神の国の祝宴が始まります。この礼拝でわたしたちは、どうして「無事」でいられるでしょうか。

2.信仰の激震
  古来、神に出会う聖なる場所は、おそれの場所でした。神の民が、シナイ山で十戒を授けられたときのことを、聖書は次のように語っています。そのとき、民の全員が「雷鳴がとどろき、稲妻が光、角笛の音が鳴り響いて、山が煙に包まれる有様を見た」(出20:19)と。これを見ると人々は非常におそろしくなって震え上がり、民の指導者モーセに懇願して言いました。「神が(直接)わたしたちにお語りにならないようにしてください。そうでないと、わたしたちは死んでしまいます」。この聖なる場所で神と出会うことに、人々は耐え難いおそれを覚えました。モーセも平気ではありませんでした。モーセもまた、過ちを犯し続ける民の代表者として、この聖なる方のみ前に進み出るときに、身震いせずにはいられませんでした。

  おそれをもって神と出会う場所はあるでしょうか。多くの教会にとって、礼拝はおそれというよりは癒しであるかもしれません。リラックスできるように、礼拝堂にソファを置いたらどうですか?という意見もあります。おそれということを考えてもみないかもしれません。しかし、おそれを経験することがあります。今まで信頼して根を下ろしていた大地が揺れ動くことがあります。愛する人の病気の知らせを受けたとき、頭を殴られたような衝撃を受けます。そのとき、ソファでコーヒーを飲みながら祈りたいという人はいないでしょう。ソファは、本当の憩いを提供しません。

  ヘブライ人への手紙は、教会が迫害下に置かれていた1世紀の末頃に教会に語られたひとつの説教であると言われています。ある人は、この頃の教会の状況と、今日の教会の状況がよく似ていると言いました。この国で信教の自由が保障されている現在、わたしたちは、迫害というものを経験することはありません。けれども、1世紀頃の人たちが迫害の中にあって主イエス・キリストの成し遂げられた救いを実感できないでいたのと同様に、今、わたしたちの時代が懐疑的な時代なのではないか。この世界のどこにキリストのご支配があるのか。わたしたちを疲れさせ、苦しませる問題の多い日常の中で、キリストの救いがどのように実現しているというのか、信仰者が揺らぎ、行き詰まりを覚えているのです。目標を見失っていないでしょうか。

  目標、お持ちかもしれません。学生であればある成績を目標とします。次第に就職が目標となります。昇格になり、結婚、次は出産。子の受験、その就職、結婚。孫。しかし、これらすべての目標は過ぎ去ります。健康で長生き?それすらもすべて。神は言われます。「わたしはもう一度、地だけではなく天をも揺り動かそう」(26節)と。それは 「揺り動かされないものが存続するために、揺り動かされるものが、造られたものとして取り除かれる」(27節)ためであると言われます。地の基が揺り動かされ、朽ちるものと朽ちないものが振り分けられたとき、わたしたちは信仰というものがどのようなものなのかを知らされていくのです。

3.この庭で
  手紙の著者は、今日の少し前の箇所で、信仰の道のりをマラソンに喩えて語りかけます。「すべての重荷や絡みつく罪をかなぐり捨てて、自分に定められている競争を忍耐強く走り抜こうではありませんか。信仰の創始者また完成者であるイエスを見つめながら」(ヘブ12:1〜2)。信仰の道には、スタートがあり辿り着くようにと定められている目標があります。このスタート地点になかなか立てずにいる者のために、キリストはこの地上においでになりました。キリストは、天におられたのに、低い者となられました。わたしたちと同じ肉体を持った人間として、誘惑に遭われ、恥にさらされ、苦しみを引き受けられました。わたしたちがこの問題に満ちた世界の中で、肉体の弱さの中で、信仰の道のスタートに立てるようになるためです。

  信仰の道に入っても、わたしたちはこの世の目標にばかり目を奪われます。この世の家に定住することを望み、そのように振る舞うことがあります。けれども、わたしたちが、「朽ちず、汚れず、しぼまない」(Tペト1:7)目標を見失うことがないように、キリストが語りかけてくださいます。「わたしはアルファであり、オメガである。最初の者にして、最後の者。初めであり、終わりである」(黙22:13)。信仰の創始者であり、完成者であるキリストを、わたしたちがしっかりと見つめることができるように、キリストが、わたしたちに先立って歩んでくださいます。

  おそれに満ちた神との出会いの山「シナイ」は、「シオン」に取って代わります。「シオン」とは、「シナイ」のような地上に実在する場所ではなく、天上の都を指します。聖書は語ります。「あなたがたが近づいたのは、シオンの山、生ける神の都、天のエルサレム、無数の天使たちの祝いの集まり…」(22節)なのだ、と。先日、教会の敷地内の草取りをしていただき、庭師の方に木も整えていただいたので、見違えるような庭園になりました。次々に生えてくる雑草ばかりに目が行って、奥の紫陽花が色づいてきたことにも気づかずにいたのだなと思わされました。庭に雨が降り、美しくて、しばらく見とれました。除染後にデザインした当初の庭の絵がよみがえってきました。ああ初めはこんな庭だったな、と思い出しました。どれだけ草だらけにしておいたのかと言われそうですが。日々背を伸ばす雑草が、わたしたちの住むべき美しい庭を忘れさせます。

  旧約聖書に次のような詩があります。「主の庭を慕って、わたしの魂は絶え入りそうです。命の神に向かって、わたしの身も心も叫びます。あなたの祭壇に、鳥は住みかを作り つばめは巣をかけて、雛を置いています。万軍の主、わたしの王、わたしの神よ。いかに幸いなことでしょう あなたの家に住むことができるなら まして、あなたを讃美することができるなら」(詩84:3~5)。わたしたちは、神の庭をすでに見ています。地の基が揺らぎ、地上の営みが中断されても、わたしたちはこの庭に生き、憩うのです。

祈り


〒970-8036 いわき市平谷川瀬字仲山町25
Tel/Fax 0246-21-2145
          いわき きょうかい
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牧師 上竹 裕子
更新:2016.6.14

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