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聖霊降臨節第6主日 ≪異邦人の救い≫
礼拝説教

日本キリスト教団磐城教会 2016年6月19日
 1ヨナにとって、このことは大いに不満であり、彼は怒った。2彼は、主に訴えた。「ああ、主よ、わたしがまだ国にいましたとき、言ったとおりではありませんか。だから、わたしは先にタルシシュに向かって逃げたのです。わたしには、こうなることが分かっていました。あなたは、恵みと憐れみの神であり、忍耐深く、慈しみに富み、災いをくだそうとしても思い直される方です。3主よどうか今、わたしの命を取ってください。生きているよりも死ぬ方がましです。」
 4 主は言われた。
 「お前は怒るが、それは正しいことか。」
 5そこで、ヨナは都を出て東の方に座り込んだ。そして、そこに小屋を建て、日射しを避けてその中に座り、都に何が起こるかを見届けようとした。
 6すると、主なる神は彼の苦痛を救うため、とうごまの木に命じて芽を出させられた。とうごまの木は伸びてヨナよりも丈が高くなり、頭の上に陰をつくったので、ヨナの不満は消え、このとうごまの木を大いに喜んだ。7ところが翌日の明け方、神は虫に命じて木に登らせ、とうごまの木を食い荒らさせられたので木は枯れてしまった。8日が昇ると、神は今度は焼けつくような東風に吹きつけるよう命じられた。太陽もヨナの頭上に照りつけたので、ヨナはぐったりとなり、死ぬことを願って言った。
 「生きているよりも、死ぬ方がましです。」
 9神はヨナに言われた。
 「お前はとうごまの木のことで怒るが、それは正しいことか。」
 彼は言った。
 「もちろんです。怒りのあまり死にたいくらいです。」
 10すると、主はこう言われた。
 「お前は、自分で労することも育てることもなく、一夜にして生じ、一夜にして滅びたこのとうごまの木さえ惜しんでいる。11それならば、どうしてわたしが、この大いなる都ニネベを惜しまずにいられるだろうか。そこには、十二万人以上の右も左もわきまえぬ人間と、無数の家畜がいるのだから。」
ヨナ書 4章1〜11節
 11だから、心に留めておきなさい。あなたがたは以前には肉によれば異邦人であり、いわゆる手による割礼を身に受けている人々からは、割礼のない者と呼ばれていました。12また、そのころは、キリストとかかわりなく、イスラエルの民に属さず、約束を含む契約と関係なく、この世の中で希望を持たず、神を知らずに生きていました。13しかしあなたがたは、以前は遠く離れていたが、今や、キリスト・イエスにおいて、キリストの血によって近い者となったのです。
 14実に、キリストはわたしたちの平和であります。二つのものを一つにし、御自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊し、15規則と戒律ずくめの律法を廃棄されました。こうしてキリストは、双方を御自分において一人の新しい人に造り上げて平和を実現し、16十字架を通して、両者を一つの体として神と和解させ、十字架によって敵意を滅ぼされました。17キリストはおいでになり、遠く離れているあなたがたにも、また、近くにいる人々にも、平和の福音を告げ知らせられました。18それで、このキリストによってわたしたち両方の者が一つの霊に結ばれて、御父に近づくことができるのです。19従って、あなたがたはもはや、外国人でも寄留者でもなく、聖なる民に属する者、神の家族であり、20使徒や預言者という土台の上に建てられています。そのかなめ石はキリスト・イエス御自身であり、21キリストにおいて、この建物全体は組み合わされて成長し、主における聖なる神殿となります。22キリストにおいて、あなたがたも共に建てられ、霊の働きによって神の住まいとなるのです。
エフェソの信徒への手紙 2章11〜22節

1.隔ての壁
  今年、わたしは献身して10年になります。神学校に入学したのが2006年でした。ようやく振り返れるようになったということなのか、当時のことをいろいろと思い出して、友人と話すことがあります。神さまの憐れみによって、いま伝道者として生かされていますが、洗礼を受けた15年前には想像しなかった人生を歩んでいます。神学校への入学が決まったとき、母教会の尊敬するある先輩に報告すると、こう言われました。「後にいる者が先になり、先になる者が後になる」(マタ20:16)というみ言葉を引いて、「神さまの御業ですね」と。その方の信仰をわたしの信仰が追い抜いた、ということではありません。神は、人間が考える順当な仕方で、ではなく、実に不思議な選びをされるということです。

  わたしたちは、いつから神に心を向けるようになったのでしょうか。「母の胎にあったときから」と答えられる方もあるでしょう。幼稚園の子どもたちがこの礼拝堂に座る姿を見ると、どんなに神がこの子どもたちを愛していらっしゃるかと思い、胸が熱くなります。キャンプのスタッフとして出かけて行き、中高生や学生たちと神について語り合うとき、喜びと共にこの子たちへの尊敬の念が湧いてきます。クリスチャンホームに生まれた子や、ミッションスクールに通う子たちは選ばれた子たちだと感じます。この異教社会の日本で、幼い日に、年若い日に、神を知ることができることは幸せなことです。

  今日、ご一緒に聞いています手紙が宛てられたエフェソという町もまた、さまざまな流れを汲む宗教文化のるつぼのような都市でした。教会の人たちはかつて別の宗教の中に身を置いていた人たちです。「あなたがたは以前には肉によれば異邦人」(11節)であった、「キリストとかかわりなく、…神を知らずに生きてい」(12節)た、と言われている通り、大多数が異邦人キリスト者でした。教会が誕生して最初期の頃は、ほとんどがユダヤ人キリスト者であったのに対して、伝道が進み、教会が地域的広がりを持つようになるにつれ、各地の教会では異邦人キリスト者が多くを占めるようになりました。旧約聖書の律法を重んじるユダヤ人キリスト者と、律法の伝統を持たない異邦人キリスト者の間で、しばしばすれ違いや対立が生じました。

  しかし、今、問題にされていることは、単にユダヤ人と異邦人の軋轢ということではないようにも思います。エフェソ教会が、異邦人が多くを占める教会となっていたことを考えれば、ユダヤ人と異邦人の衝突は少なくなっていたかもしれません。しかし、皆が異邦人の教会となれば、皆が似た者同士になれば、教会の問題が解決するということではないのです。問題は、「敵意という隔ての壁」です。キリストは、「二つのものを一つにし、御自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊」(14節)された、「十字架を通して、両者を一つの体として神と和解させ、十字架によって敵意を滅ぼされ」(16節)た、と聖書は語ります。

2.わたしか? あなたか?
  先週、わたしたちの学園の事業である認定こども園の園舎建設工事の現場説明会を行いました。2010年から描き続けてきた絵が、いよいよ現実味を帯びてきました。こども園の工事にあたって、幼稚園も教会もさまざまな備えが必要になります。最初にしなければならないことのひとつは、今、駐車場奥に建っているプレハブの物置を処分することです。地味なことのようですが、大切なことです。中身を整理してこの建物を壊さないことには着工となりません。新しい建物を建てることを妨げているものがあるならば、それを撤去しなければなりません。

  第二次世界大戦後に、連合軍によってドイツは東西に分けられました。資本主義の統治下にある西側と社会主義の支配下にある東側の経済格差が拡大していきました。特に、東側にあったベルリンは、ベルリンというひとつの町の中で東西に分けられたために、自由を求めて東から西へ逃れる人々が絶えませんでした。東側は、市民の流出を防ぐため、1961年のある晩、一夜にして西ベルリンを取り囲む「壁」を建設しました。突然のベルリンの壁の出現によって、家族と会えなくなる人たちもありました。壁を超えようとして、命を落とした人たちもいました。1989年に東西の国境が開放され、1990年にベルリンの壁は崩壊します。壁の多くの部分は撤去されましたが、一部は、分断の歴史を象徴する記念碑として残されています。

  人々にとって、分断の壁の時代は、繰り返し思い起こされるべき歴史でした。聖書は改めて語ります。「だから、心に留めなさい」(11節)と。口語訳聖書では、「記憶しておきなさい」という言葉です。「平和」を得た今、わたしたちが負の歴史を逆戻りすることがないように、です。聖書は証しています。「実に、キリストはわたしたちの平和であります。二つのものを一つにし、御自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊し、規則と戒律ずくめの律法を廃棄されました。こうしてキリストは、双方を御自分において一人の新しい人に造り上げて平和を実現」(14〜15節)された、と。

  壁を作っているのは、古くから神の国のメンバーシップを持っているユダヤ人の誇りでしょうか。新しくメンバーに加えられた異邦人の危なっかしさでしょうか。この壁はしかし、単に一方的な存在ではなく、「双方」の、また「両者」(16節)のと言われる通り、お互いの問題なのです。そうであるから、壁は双方向から取り壊されねばなりませんでした。わたしたちの間でも、被害者と加害者、抑圧者と被抑圧者という構図があります。どちらが正しく、どちらが誤っているか、という人間の判断があります。しかし、これら双方の間にある分厚い壁を打ち破ることができるのは、「わたし」でも「あなた」でもない、主イエス・キリストただおひとりなのです。キリストは、「十字架を通して、両者を一つの体として神と和解させ、十字架によって敵意を滅ぼされ」(16節)た、と聖書は語ります。

3.キリストの奇跡
  「和解」という言葉は、意外にも聖書の本文に登場することは多くはないのですが、キリスト者のアイデンティティとなるキーワードのひとつです。「和解」という言葉の性質が重要です。広辞苑を引きますと、「和解する」とは「相互の意志がやわらいで、とけあうこと」とあります。「和解」という日本語の一般的な用法は「やわらいで、とけあうこと」です。

  聖書を開くと、「和解する」という言葉は、原典で「apokatallasso」、あるいは「katallasso」というギリシャ語です。「apo」が付くか否か、接頭辞の違いはありますが、ほとんど同じ意味と言ってよいと思います(このエフェソ書では「apokatallasso」)。「和解する」という言葉は、新約聖書の原典で「katallasso」というギリシャ語です。
  「katallasso」は、「kata」と「allasso」の合成語です。「kata」は、「徹底して」という意味の、強調する意味の語です。強調された「allasso」は、「allos」―「他の」(英語のother)の意味―から派生しています。「allasso」は、「(今とは異なるものに)変える」、「取り替える」、「変容させる」といった意味があります。「和解する」という言葉は、「徹底的に(今とは異なるものに)変える」といった意味合いを持ちます。広辞苑風に「とけあう」のではなく、ゴリゴリとした痛みをもって徹底的に変えられていくことです。「和解」の中心に置かれているのは、自己ではなく「allos―他者」という言葉です。

  主イエスの行われた奇跡についておもしろいことを言った牧師がいます。ズボンを買いに行って、店員にウエスト100センチのズボンをお願いしたとして、店員が80センチのズボンを持って来たらどうするか、と言うのですね。青年のひとりが答えました。「僕だったら、とりあえず履いてみて、入りませんでしたと伝えます」と。人のいい子なのですね。「それで、次に75センチのズボンを持って来たらどうしますか?」こう聞かれると、さらに青年は答えます。「とりあえず履いてみて…」と。本当にいい子ですね。相当のお人よしです。普通の感覚なら怒り出すでしょう。少なくともわたしならお店を出て行くと思います。でも、その牧師は「もう一つの方法がある」と言い出しました。「ダイエットするのです」と。主イエスは、別の店には行かず、ウエスト75に合わせた。つまり十字架という誰も合わせたくないことに、自分のウエストを合わせていったと言うのです。自分自身が神のみ心に近づいていく、これがキリストの奇跡である、と。

  神にとって「和解」とは、壮絶な十字架の痛みに自らを委ねながら、罪人を赦すことでした。「和解」とは、奇跡です。わたしたちは神の痛みの中で赦され、「新しい人」(15節)として生まれたのです。罪の分厚い壁を打ち破られたこの場所に、キリスト御自らが「かなめ石」(20節)となり、教会という新しい建物を建て始められます。わたしたちがこの唯一の方によって、ひとつの建物を建て上げてゆくことができるように。

祈り


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Tel/Fax 0246-21-2145
          いわき きょうかい
日本キリスト教団 磐 城 教 会
牧師 上竹 裕子
更新:2016.6.20

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