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聖霊降臨節第8主日 ≪復活の希望≫
礼拝説教抄録

日本キリスト教団磐城教会 2016年7月3日
14あなたの杖をもって
 御自分の民を牧してください
 あなたの嗣業である羊の群れを。
 彼らが豊かな牧場の森に
   ただひとり守られて住み
 遠い昔のように、バシャンとギレアドで
   草をはむことができるように。
15お前がエジプトの地を出たときのように
 彼らに驚くべき業をわたしは示す。
16諸国の民は、どんな力を持っていても
 それを見て、恥じる。
 彼らは口に手を当てて黙し
 耳は聞く力を失う。
17彼らは蛇のように
 地を這うもののように塵をなめ
 身を震わせながら砦を出て
 我らの神、主の御前におののき
 あなたを畏れ敬うであろう。
18あなたのような神がほかにあろうか
 咎を除き、罪を赦される神が。
 神は御自分の嗣業の民の残りの者に
 いつまでも怒りを保たれることはない
 神は慈しみを喜ばれるゆえに。
19主は再び我らを憐れみ
 我らの咎を抑え
 すべての罪を海の深みに投げ込まれる。
20どうか、ヤコブにまことを
 アブラハムに慈しみを示してください
 その昔、我らの父祖にお誓いになったように。
ミカ書 7章14〜20節
 10総督が、発言するように合図したので、パウロは答弁した。「私は、閣下が多年この国民の裁判をつかさどる方であることを、存じ上げておりますので、私自身のことを喜んで弁明いたします。11確かめていただけば分かることですが、私が礼拝のためエルサレムに上ってから、まだ十二日しかたっていません。12神殿でも会堂でも町の中でも、この私がだれかと論争したり、群衆を扇動したりするのを、だれも見た者はおりません。13そして彼らは、私を告発している件に関し、閣下に対して何の証拠も挙げることができません。14しかしここで、はっきり申し上げます。私は、彼らが『分派』と呼んでいるこの道に従って、先祖の神を礼拝し、また、律法に則したことと預言者の書に書いてあることを、ことごとく信じています。15更に、正しい者も正しくない者もやがて復活するという希望を、神に対して抱いています。この希望は、この人たち自身も同じように抱いております。16こういうわけで私は、神に対しても人に対しても、責められることのない良心を絶えず保つように努めています。17さて、私は、同胞に救援金を渡すため、また、供え物を献げるために、何年ぶりかで戻って来ました。18私が清めの式にあずかってから、神殿で供え物を献げているところを、人に見られたのですが、別に群衆もいませんし、騒動もありませんでした。19ただ、アジア州から来た数人のユダヤ人はいました。もし、私を訴えるべき理由があるというのであれば、この人たちこそ閣下のところに出頭して告発すべきだったのです。20さもなければ、ここにいる人たち自身が、最高法院に出頭していた私にどんな不正を見つけたか、今言うべきです。21彼らの中に立って、『死者の復活のことで、私は今日あなたがたの前で裁判にかけられているのだ』と叫んだだけなのです。」
使徒言行録 10章10〜21節

1.疫病のような人間
  わたしたちが地上で成し遂げられることは、多くはないのだろうと思います。次の世代に手渡すことができるものは何であるでしょうか。家族の間で、親から子へ、孫へ、さらにその子孫へと継承される物語はあるでしょうか。国家では世代の継承をどう考えられるでしょうか。社会保障やこれ以上借金を残さないことがひとつの課題と考えられているかもしれません。日本国家という大きな共同体でも、50年前には課題は異なっていました。高度経済成長期の真っただ中でした。75年前はどうでしょうか。真珠湾攻撃の年です。このとき、国として目指していたものは、いまの時代とは真逆のものでした。憲法も変わりました。これまでの歴史がなければいまの日本はない、ということは疑いようもないことです。現在も失敗と克服の歴史の途上にあります。時代の変化の中で、わたしたちが民族レベルで継承するものは、絶えず移り変わります。

  一方で今日、わたしたちは、2千年もの間、変わらずに継承されてきたものに触れています。キリスト教信仰を異邦人世界に拡大していった初代の伝道者パウロの言葉を聞いています。キリスト教会は、ユダヤ人たちの間で軋轢を生みながら拡大していきました。ユダヤ社会の指導者たちは、キリストを大胆に宣べ伝えるパウロを妬み、殺意さえ抱きました。パウロをローマ政府に送り、このように訴えました。「この男は疫病のような人間で、世界中のユダヤ人の間に騒動を引き起こしている者、『ナザレ人の分派』の首謀者であります。この男は神殿さえも汚そうとしましたので逮捕いたしました」(使24:5〜6)と語ります。このような訴えに対して、パウロはローマ帝国の官僚である総督の前に出て答弁します。

  まず、「疫病のような人間」という疑惑についてですが、思わず笑ってしまうほどひどい言葉です。病原菌扱いされて喜ぶ人はあまりいないと思いますが、伝道者ならば褒め言葉です。パウロの伝道の伝染力は、疫病レベルで凄まじいものでした。パウロの説教は、多くの回心者を生み、ユダヤ人たちの妬みの要因となりました。ユダヤの指導者たちは訴えました。彼は分派をつくって「騒動を引き起こしている」と。「キリスト者」という呼び名が一般的になる前、教会は「分派」と呼ばれ、正統的なユダヤ教の諸派と区別された異端グループと見なされました。

  パウロは答えます。「この私がだれかと論争したり、群衆を扇動したりするのを、だれも見た者はおりません…彼らは…何の証拠も挙げることができません」(12〜13節)。パウロは、この否定的な意味の込められた「分派」という呼び方を言い直して、このように言います。「私は彼らが『分派』と呼んでいるこの道に従って、先祖の神を礼拝し、また、律法に則したことと預言者の書に書いてあることを、ことごとく信じています」(14節)。

2.変わらない信仰の言葉
  パウロは、「神殿さえも汚そうとし」たという訴えについても、自分はまったく忠実なユダヤ人であり、敬虔な巡礼者のひとりであることを語ります。そもそもパウロがエルサレムにやって来た目的は、演説をするためではなく、「礼拝のため」(11節)でした。神への信仰に基づいて、エルサレムに暮らす「同胞に救援金を渡すため、また、供え物を献げるため」(17節)だったと説明します。パウロは、自らが礼拝することを第一とし、聖書の教えに忠実に歩むことを重んじました。キリスト信仰を新しい宗教とは考えませんでした。パウロは、自らの信仰をはっきりと言い表します。唯一の主なる神を信じること、また聖書に書かれていることを信じること、「更に、正しい者も正しくない者もやがて復活するという希望」(15節)です。

  これが、わたしたちが触れている、今日まで変わらずに受け継がれてきた信仰です。教会独自の建物もない、教会に行くための乗り物もない、讃美歌を歌うにもオルガニストもいない、いやオルガンそのものもない。「キリスト者」という呼び名も、まだない。そういう始まりの時代に、しかし、福音は、成熟した完全なものとして語られていました。この福音が土台となって、世界中に教会が建てられていきました。パウロは大変簡潔に信仰の内容を言い表しました。「正しい者も正しくない者もやがて復活するという希望」を、神に対して抱いている、と。

  主イエスが山上の説教の中で語られた言葉を想い起こします。「父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださる」(マタ5:45)。主は、当時のユダヤ社会では敬遠されていた徴税人や罪人と共に食卓を囲まれました。これを批判する人たちに言われました。「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである」(マタ9:13)。しかし、ユダヤ社会の指導者たちはこのような主イエスのやり方を受け入れることができませんでした。「見ろ、大食漢で大酒飲みだ。徴税人や罪人の仲間だ」(マタ11:19)と言って、主イエスを厳しく非難しました。場違いの人たちとの交流は、しかし、主イエスの宣教の根幹をなしていると言っても言い過ぎではないはずです。

  パウロは、ここで復活の希望を語っていますが、この復活についても、旧約聖書の正統の信仰に基づくものとして主張しています。ユダヤ教では、復活を信じるファリサイ派と信じないサドカイ派がありました。復活の希望は、真新しいものではなく「この人たち(ファリサイ派のユダヤ人たち)自身も同じように抱いて」(15節)いることだと言っている通りです。しかし、「正しい者も正しくない者もやがて復活するという希望」は、主イエスの生き方、主イエスの十字架と復活の出来事によって明らかにされ、初期の教会の信仰を基礎づけるものとなったことは間違いありません。

3.生きた信仰の言葉
  弁明を聞いていたローマ総督のフェリクスは、パウロという人の扱いに困ってしまい、裁判を続けることを断念します。この間パウロを監禁しつつも、彼にある程度の自由を与えました。さらにこの後で、フェリクスが妻のドルシラと共に、「キリスト・イエスへの信仰について話を聞いた」(使24:24)という記事が報告されています。そこでパウロが、「正義や節制や来たるべき裁きについて」(使24:25)話すと、フェリクス夫妻は恐ろしくなって、話を聞くのを止めてパウロを帰してしまった、とあります。フェリクスという人のスキャンダラスな結婚については、聖書以外の歴史資料でよく知られています。フェリクスの3番目の妻となったのがドルシラでした。神が喜ばれる結婚ではなかったふたりは、「正義や節制や来たるべき裁きについて」語るパウロの言葉に耐えられなかったのです。

  「正しい者も正しくない者もやがて復活するという希望」は、生き方の正邪を問わない安全保障のようなものではありません。パウロは、だれも触れることが許されなかった官僚の結婚生活の不道徳に触れています。もっともこの不倫の内容は聖書の中心的な関心事ではありません。けれども、パウロのフェリクスに対する言葉が、どんなにきわどいものであったかは想像できます。伝道者は生命の危機をおかしても、大胆に神の真理を語りました。わたしたちは、このように語ることができるでしょうか。

  すべてのいのちは神が創造されたという信仰に立つとき、これに加えられていった価値体系、価値基準はすべて相対化されていきます。パウロは、自身の宣教活動についてこのように語っています。「ユダヤ人に対しては、ユダヤ人のようになりました。ユダヤ人を得るためです。…弱い人に対しては、弱い人のようになりました。弱い人を得るためです。すべての人に対してすべてのものになりました。何とかして何人かでも救うためです」(Tコリ9:20〜22)。パウロの強い伝染力の所以はここにあるのではないでしょうか。彼は「すべての人に対して、すべてのものになる」ことができました。

  たしかに、パウロは当時のユダヤ社会で、一流の教育を受けたエリートでした。どんな人であったのか性格まではわかりませんが、レトリックにしてもすばらしい賜物を持っていました。しかし、本当にすばらしいことは、強い人に対して強さをもって大胆に語ることができたということです。弱い人に対して弱さの中で共に語り合うことができたことです。わたしたちの周囲を見渡すとき、否、わたしたち自身が自らの言葉を顧みるときには、どうでしょうか。強い人に対して弱く語り、弱い人に対して強く語る言葉のなんと多いことかを思わないではいられません。わたしたちは、どのような言葉を語っていくのでしょうか。信仰は、2千年前の化石ではありません。わたしたちは、目まぐるしく変わる世界で、生ける神の言葉を聞き、日々出会う人に信仰を伝えるのです。

祈り


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Tel/Fax 0246-21-2145
          いわき きょうかい
日本キリスト教団 磐 城 教 会
牧師 上竹 裕子
更新:2016.7.5

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