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聖霊降臨節第9主日 ≪破局からの救い≫
礼拝説教抄録

日本キリスト教団磐城教会 2016年7月10日
1 ヤコブよ、あなたを創造された主は
 イスラエルよ、あなたを造られた主は
   今、こう言われる。
 恐れるな、わたしはあなたを贖う。
 あなたはわたしのもの。
 わたしはあなたの名を呼ぶ。
2 水の中を通るときも、わたしはあなたと共にいる。
 大河の中を通っても、あなたは押し流されない。
 火の中を歩いても、焼かれず
 炎はあなたに燃えつかない。
3 わたしは主、あなたの神
 イスラエルの聖なる神、あなたの救い主。
 わたしはエジプトをあなたの身代金とし
 クシュとセバをあなたの代償とする。
4 わたしの目にあなたは価高く、貴く
 わたしはあなたを愛し
 あなたの身代わりとして人を与え
 国々をあなたの魂の代わりとする。
5 恐れるな、わたしはあなたと共にいる。
 わたしは東からあなたの子孫を連れ帰り
 西からあなたを集める。
6 北に向かっては、行かせよ、と
 南に向かっては、引き止めるな、と言う。
 わたしの息子たちを遠くから
 娘たちを地の果てから連れ帰れ、と言う。
7 彼らは皆、わたしの名によって呼ばれる者。
 わたしの栄光のために創造し
   形づくり、完成した者。

8 引き出せ、目があっても、見えぬ民を
 耳があっても、聞こえぬ民を。
9 国々を一堂に集わせ、すべての民を集めよ。
 彼らの中に、このことを告げ
 初めからのことを聞かせる者があろうか。
 自分たちの証人を立て、正しさを示し
 聞く者に、そのとおりだ、と
 言わせうる者があろうか。
10わたしの証人はあなたたち
 わたしが選んだわたしの僕だ、と主は言われる。
 あなたたちはわたしを知り、信じ
 理解するであろう
 わたしこそ主、わたしの前に神は造られず
 わたしの後にも存在しないことを。
11わたし、わたしが主である。
 わたしのほかに救い主はない。
12わたしはあらかじめ告げ、そして救いを与え
 あなたたちに、ほかに神はないことを知らせた。
 あなたたちがわたしの証人である、と
   主は言われる。
 わたしは神
13今より後も、わたしこそ主。
 わたしの手から救い出せる者はない。
 わたしが事を起こせば、誰が元に戻しえようか。
イザヤ書 43章1〜13節
 33夜が明けかけたころ、パウロは一同に食事をするように勧めた。「今日で十四日もの間、皆さんは不安のうちに全く何も食べずに、過ごしてきました。34だから、どうぞ何か食べてください。生き延びるために必要だからです。あなたがたの頭から髪の毛一本もなくなることはありません。」35こう言ってパウロは、一同の前でパンを取って神に感謝の祈りをささげてから、それを裂いて食べ始めた。36そこで、一同も元気づいて食事をした。37船にいたわたしたちは、全部で二百七十六人であった。38十分に食べてから、穀物を海に投げ捨てて船を軽くした。

 39朝になって、どこの陸地であるか分からなかったが、砂浜のある入り江を見つけたので、できることなら、そこへ船を乗り入れようということになった。40そこで、錨を切り離して海に捨て、同時に舵の綱を解き、風に船首の帆を上げて、砂浜に向かって進んだ。41ところが、深みに挟まれた浅瀬にぶつかって船を乗り上げてしまい、船首がめり込んで動かなくなり、船尾は激しい波で壊れだした。42兵士たちは、囚人たちが泳いで逃げないように、殺そうと計ったが、43百人隊長はパウロを助けたいと思ったので、この計画を思いとどまらせた。そして、泳げる者がまず飛び込んで陸に上がり、44残りの者は板切れや船の乗組員につかまって泳いで行くように命令した。このようにして、全員が無事に上陸した。
使徒言行録 27章33〜44節

1.生と死の場所
  みなさんがいちばん好きな場所はどこでしょうか。安心できる場所、落ち着ける場所をお持ちでしょうか。わたしは、やはり一日の終わりにベッドに横たわるとき、緊張が解けていちばんリラックスできるような気がします。布団の中で眠れることは、ありがたいことです。疲れているときには、しばらく布団の中にいたい、少しでも長く眠りたいと思います。人間の赤ちゃんは、この世界に生まれてから自分で動き始めるまでのしばらくの間、やさしい布団に身を委ねています。一方、病気の方を見舞うときに、ベッドに横たわる姿を見ます。多くの人々が、このベッドに縛られた生活をしています。しばらくそこにいたいという幸せな思いではなく、早くここから解放されたいという思いで布団の中にいる人たちがいます。そして、この場所で、数知れない人々が、最後の眠りにつきます。わたしが好きな布団は、生の場所であり、死の場所でもあります。

  古来、水の中も、そのような場所でありました。生を与え、また死をも与える場所が、水であり、海です。震災以降、海のイメージは変わってしまったのかもしれません。震災からいわき市内で津波の被害にあった方たちの仮設住宅で炊き出しのボランティアを続けているメンバーが、このようなことをお話くださいました。支援の先で出会う被災者の方々が、震災直後には一切何も話すことがなかった、と。お弁当を作っても、それぞれの家に持ち帰ってしまうので、料理が口に合わないのかと不安になったと言います。後でわかったことでは、お弁当を家にいる家族に持ち帰っていたということで、数を増やしたそうです。このように打ち解けて行く中で、震災当初、生活用品など支援物資の配布を行っていたとき、きれいな青や水色の衣服が、どれも売れ残った理由もわかったのだと言います。海を思い出す色を身につけることができなかったということでした。海のすぐ傍で、海と共に暮らしていた方たちが、そのような思いを持たれたのです。

  キリストの使徒パウロを含む一行が、ローマ行の船で難破し、ようやくたどり着いた「砂浜のある入り江」(39節)がどこであったのか。今日のところのすぐ後の28章で、「この島がマルタと呼ばれていることがわかった」(使28:1)とあります。パウロたちが上陸したと言われる場所は「聖パウロ湾」と名づけられているようです。地中海に浮かぶマルタ島、聖パウロ湾がどのような場所なのか、行ったことはないのですが、ウェブで検索すると見ることができます。目が覚めるような真っ青な、美しい海が広がっています。この航海記だけを読んでいると、色彩豊かな美しい地中海の風景は一切描かれてはいません。航海の技術もそれほど発達していないこの時代の人々にとって、ここを行こうとする者たちにとって、海と言う場所がどのような場所であるのか。美しい生命力あふれる場所というよりは、死の危険にさらされる恐れの場所でした。

2.危険な船旅
  使徒パウロは、ローマ行きの船の中にいます。ローマ行きは、かねてからパウロが願っていた旅でした。パウロが乗り込んでいる船は、しかし、パウロ自身の主導による船ではありませんでした。パウロは捕らわれの身として船に乗せられているのです。パウロがキリストを宣べ伝えていることで、妬みを抱いたユダヤ人たちがローマにパウロを訴え出ましたが、パウロの罪は証明されませんでした。パウロは、しかし、そこから監禁生活を余儀なくされます。2年の月日が流れてローマの総督が代替わりすると、パウロは自ら皇帝に上訴することを望んで、ローマに護送されることになります。

  囚人たちが、ローマの役人たち、船乗りたちと共に船に乗り込んでいます。順調とは言えない船足でしばらく進むと、海の荒れるころになっていました。その時期の航海の危険を知るパウロは、このまま船旅を続けるならば災難に遭うと警告しますが、この言葉に耳を貸す人はいません。船は出航します。しかし、間もなくして暴風が吹き降ろして来ると、航路を乱し始めます。嵐の中で船が沈没するのを恐れた人たちは、積み荷を海に投げ捨て、必要な船具まで捨ててしまいました。冷静な判断を持って捨てたというよりは、パニックに陥って、次から次に荷物を投げ捨て始めたのです。大海原で自分の位置を確認する頼みの「太陽も星も見えず」(使27:20)、暴風がいよいよ激しく吹きすさびました。

  船は流され、目標をまったく見失いました。助かる希望は失せ、食事も喉を通らないほどに、すべての者が衰弱していました。パウロはここで呼びかけます。「今、あなたがたに勧めます。元気を出しなさい。船は失うが、皆さんのうちだれ一人として命を失う者はないのです」(使27:22)。「今日で14日もの間、皆さんは不安のうちに全く何も食べずに、過ごしてきました。だから、どうぞ食べてください。生き延びるために必要だからです。あなたがたの頭から髪の毛一本もなくなることはありません」(33〜34節)。このように語るばかりでなく、自らパンを取ります。「一同の前でパンを取って神に感謝の祈りをささげてから、それを裂いて食べ始め」(35節)ました。この光景は、「パンを取り、感謝の祈りを唱えて、それを裂き…」(ルカ22:19)という主の晩餐を思い起させます。パウロの言葉に励まされて食事をした人々は、元気を取り戻しました。

  人々は、船の食卓から食べて元気になりました。十分に食べた後で、すぐにしたことがあります。再び「穀物を海に投げ捨てて船を軽くした」(38節)とあります。船の中の人たちは勇気を取り戻しましたが、外の困難な状況は変わっていません。暴風が吹き荒れて、波が激しく打ちつけています。どこに、どのように上陸できるかもわからない中で、穀物を捨てていきます。積荷を船に留めておくことは命取りになるかもしれません。一方で、それらを捨てることも、彼らの命に関わる重大な決断でした。

3.船は失われても
  古代キリスト教会は、舟のイメージで造られました。旧約聖書のノアの箱舟以来、世の暴風、荒波の中に浮かぶ一艘の舟が、人々をあらゆる恐れから救う場所と考えられていたからです。この場所には、人種も立場も違うさまざまな人たちが乗り込んでいます。ユダヤ人やギリシア人、イタリア人もいました。他の国籍を持つ人もあったかもしれません。百人隊長などローマの役人や兵士たちと共に、船長や船主、船の乗組員が居合わせました。この中にパウロもいました。教会はこのようにして、多様な人々を乗せながら、世の荒波を行く船です。

  パウロは、伝道者として、しかしそれゆえに囚人のひとりとなってこの船に乗り込んでいます。この船の中で、なんの発言権ももたないただの囚人です。けれども、パウロの立場は、船の状況がいよいよ困窮していく中で変化していきます。パウロは、希望をすっかり失った人たちに、慰めを語らねばなりませんでした。パウロはよどみのない言葉で告げました。「船は失うが、皆さんのうちだれ一人として命を失う者はないのです」。「だれ一人失われない」という証に、その数は「全部で276人であった」(37節)と数えられています。それどころか、「あなたがたの頭から髪の毛一本もなくなることは」(34節)ないと、パウロは語りかけます。この言葉は、主イエスの言葉を思い起こさせます。「二羽の雀が一アサリオンで売られているではないか。だが、その一羽さえ、あなたがたの父のお許しがなければ、地に落ちることはない。あなたがたの髪の毛までも一本残らず数えられている。だから、恐れるな」(マタ10:29〜31)。

  「あなたがたの頭から髪の毛一本もなくなることは」ない。人々はこの言葉を信じ、この言葉にすがり、積んできた財を、迷わずに海に投げ捨てました。この船は、砂浜のある入り江を見つけてそこに乗り入れようとしますが、深みの間に現れた浅瀬に座礁し、身動きが取れなくなってしまいます。そこでなお容赦なく打ち寄せる激しい波に船体が破れだしました。一時、場は騒然としましたが、百人隊長の指示によって最初に泳げる人たちは海に飛び込んで陸に向かいました。残りの人たちも助け合って泳ぎ、全員が岸に辿りつきました。

  船は失われました。積んできたすべての財は海の底に沈みました。人種も身分もなく、人々は、ただ人間であるという理由だけで生き、皆が裸でした。神は、わたしたちが依り頼んできた立派な船ではなく、積み上げてきた財産や功績ではなく、身につけている衣服でもない、あるいは犯してきた罪のリストでもないもの、一人ひとりに裸の尊厳をお示しになります。この裸の尊厳によって、わたしたちをいのちの損なわれる危機から救い出してくださいます。「わたしの目にあなたは価高く、貴く わたしはあなたを愛し」(イザ43:4)ている、と、神は今日も、わたしたちに語りかけるのです。

祈り


〒970-8036 いわき市平谷川瀬字仲山町25
Tel/Fax 0246-21-2145
          いわき きょうかい
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牧師 上竹 裕子
更新:2016.7.12

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