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聖霊降臨節第11主日 ≪聖 餐≫
礼拝説教抄録

日本キリスト教団磐城教会 2016年7月24日
1 知恵は家を建て、七本の柱を刻んで立てた。
2 獣を屠り、酒を調合し、食卓を整え
3 はしためを町の高い所に遣わして 
 呼びかけさせた。
4 「浅はかな者はだれでも立ち寄るがよい。」
 意志の弱い者にはこう言った。
5 「わたしのパンを食べ
 わたしが調合した酒を飲むがよい
6 浅はかさを捨て、命を得るために
 分別の道を進むために。」
7 不遜な者を諭しても侮られるだけだ。
 神に逆らう者を戒めても自分が傷を負うだけだ。
8 不遜な者を叱るな、彼はあなたを憎むであろう。
 知恵ある人を叱れ、彼はあなたを愛するであろう。
9 知恵ある人に与えれば、彼は知恵を増す。
 神に従う人に知恵を与えれば、彼は説得力を増す。
10主を畏れることは知恵の初め
 聖なる方を知ることは分別の初め。
11わたしによって、あなたの命の日々も
 その年月も増す。
箴言 9章1〜11節
 23わたしがあなたがたに伝えたことは、わたし自身、主から受けたものです。すなわち、主イエスは、引き渡される夜、パンを取り、24感謝の祈りをささげてそれを裂き、「これは、あなたがたのためのわたしの体である。わたしの記念としてこのように行いなさい」と言われました。25また、食事の後で、杯も同じようにして、「この杯は、わたしの血によって立てられる新しい契約である。飲む度に、わたしの記念としてこのように行いなさい」と言われました。26だから、あなたがたは、このパンを食べこの杯を飲むごとに、主が来られるときまで、主の死を告げ知らせるのです。

 27従って、ふさわしくないままで主のパンを食べたり、その杯を飲んだりする者は、主の体と血に対して罪を犯すことになります。28だれでも、自分をよく確かめたうえで、そのパンを食べ、その杯から飲むべきです。29主の体のことをわきまえずに飲み食いする者は、自分自身に対する裁きを飲み食いしているのです。
コリントの信徒への手紙一 11章23〜29節

1.大きな家族の祝宴
  わたしたちの礼拝堂の中心には、食卓テーブルが置かれています。礼拝堂内では、飲食禁止という教会もありますが、礼拝の中で食べること、飲むことがあります。食べること。飲むこと。このことは、わたしたちが生きている限り必要とすることです。いま我が家の犬は、足の負傷から自力で立つことができません。4歳ですが、老犬のように抱き上げてあげなければ一歩も歩くことができず、腰が上がらないので排泄も不自由になってしまいました。けれども、ごはんだけはいつも通り食べるので、それを見るとホッとします。食欲があるということが、どんなに幸せなことなのか。ありきたりな言葉ですが、病気の人を訪ねるたびに深く思わされます。

  古来、聖書に記される病気の概念は、病理的に分析され、診断名がつくものというよりは、その人の存在全体に関わる、全人的で、総合的なものでした。「病」の概念は、3つの素朴な要素から成っていました。痩せる、顔色が悪くなる、力が抜ける、この3つです。痩せること、顔色が悪くなることというのは、病気そのものではありません。悩みで食欲が失せて、痩せる人もいます。体内に病原体が見つからなくても、その「病」によって、死に至ることもあります。食べることは、わたしたちの生活の中で一日も欠かすことのできない中心的な営みです。食べることの対極にあるものは、飢えることであり、弱ること、やがては死です。

  昨日、わたしは従姉の結婚式に出席してまいりました。ずい分長いこと会っていなかった親戚と再会して懐かしい話に花が咲きました。結婚式後のパーティーでは、新郎新婦が作ったDVDを鑑賞しました。従姉の子ども時代の写真に、わたしたちが遊んだ懐かしい家が写っていました。家族ビデオのようなものはあまり好まない方なのですが、その中に若い祖父母が立っている写真が出てきて、思わず見入りました。13年前に祖母は死に、祖父は6年前に亡くなりました。わたしにとっては、毎日一緒だった祖父母で、晩年の姿をよく思い出すのですが、子ども時代の祖父母の姿を思い出したのがあまりにも久しぶりだったので、いろいろな思い出が噴き出してきて、言いようのない気持ちになりました。

  祝宴のテーブルに並ぶのは、やはり、おいしい食事とお酒です。多くの人たちが酔っぱらっている席で、「え。飲まないの?」「今日いわきに帰るの?」などと言われながら、お茶を飲んでいました。それで、なおさら酔っている人たちが楽しそうに見えたのかなとも思いますが、とにかく楽しそうな、陽気な時間でした。一度遠く離れてしまうと、このようにして家族が集まるチャンスは滅多にないものかもしれません。せいぜい結婚式や葬儀などでしょうか。あるいは定期的に家族会を持っているというお家もあるかもしれません。大きな家族で集まって乾杯するような時間を皆さんも持たれるのでしょうか?

2.乾杯と聖餐
  結婚式の乾杯の音頭を取る人が、前に出てスピーチをしているのを眺めていると、ひとつの所作が頭に浮かんできました。牧師がいつも礼拝でする所作です。グラスを両手で高く掲げて言います。「これは、わたしたちのために流された主イエス・キリストの血潮です。あなたのために主が血を流されたことを覚え、感謝をもってこれを受け、御子イエス・キリストとの交わりに与りましょう」。ここで「乾杯」とは言いませんが、聖餐の言葉です。聖餐と「乾杯」が似ているなどと言うのは、不謹慎なことでしょうか。聖餐と「乾杯」を一緒にするなんて、どうかしていると思われるかもしれません。

  しかし、この席でコリント教会の人たちは、事実、酔っぱらっていました。酔い方が間違っていたとしても、その食事そのものは楽しいものだったのかなと想像もします。どの家族も皆で食卓を囲みます。ホームステイをする際のもっとも大切な儀礼は、その家で食卓を共に囲むことです。お客をもてなすとき、食事は大きな役割を果たします。家族は皆、食卓を囲むのです。それぞれの家族の物語があります。このことは、葬儀に際しても、よくよく思わされることです。わたしたちは普段、教会に来ているときの皆さんの姿しか知りません。葬儀のときに家族から初めて聞くお話があります。その人が、どのように歩まれたのか、まとまったお話を伺いますと、その人の知らない一面が見えてきます。

  わたしは牧師として、皆さんのことをよく知っているというつもりはないですし、もちろんいろいろなお話に興味がありますが、すべてを知ることはできません。何でも話せる教会の友がいる、というのはよいことには違いないのですが、腹をわって話すことが重要なことではないと思うのです。わたしたちにとって、それよりももっと重要なことは、それぞれの家族のもとから、この場所に招き入れられた、ということです。それぞれの家族の物語があります。しかし、わたしたちの人生に、血肉による家族とはまったく別の、新しい物語が介入してきます。わたしたちは、既存の家族の食卓とはまったく異なる、新しい食卓に招かれます。主の晩餐の食卓です。この食卓は、イエスを主と告白し、洗礼を受けた者だけが与ります。聖餐は、主イエス・キリストへの信仰によって味わう食事であるからです。

  主イエス御自らが、「わたしの記念としてこのように行いなさい」(24節)とお命じになったこの聖餐の食卓を、教会は2千年間、教会の中心的な営みとして、大切に守り続けてきました。「記念」(アナムネーシス)という言葉は、記憶すること、思い起こすこと、新たに経験すること、といった意味があります。聖書において、「想い起すこと」、「記念すること」は、重要なキーワードです。歴史に刻まれた神の救いの物語があります。この物語を、繰り返し想い起し、ものがたり、伝えていくことは、神の家族である教会のもっとも大きな使命です。

3.わたしたちのための主のパン
  初代の教会の人たちが、この食卓をもっとも重要なものとしていたことは疑いようもないことです。聖餐の中心は、主イエスの十字架の死に与ることです。そして復活の主が再び来られることを信じ、神の国の将来への希望を確かめることです。「マラナ・タ」(主よ、来てください)と祈りながら、将来への希望を確信し、喜びに満たされて聖餐に与りました。学生時代の恩師がよく、聖餐を論じるよりも先に聖餐においしいパンとワインを準備する方がいいと言っていました。たしかにまずいよりはおいしい方がありがたいですが、主が十字架におかかりになる前の晩餐に弟子たちと共に食されたものは、過越祭の食事ですから発酵しない種なしパンです。主の死を記念するならそれがよいのかもしれません。聖餐はしかし、主の葬儀を何度も行うようなしんみりしたものではなく、感謝と喜びに満ちたものでした。コリント教会の人たちの酔い方が間違ってはいても、うれしい、楽しい食事であったに違いありません。乾杯の音頭を取られるのは、主であるからです。

  食卓の主を迎えて、喜びのうちに聖餐に与るわたしたちに、ある緊張を与える言葉があります。「ふさわしくないままで主のパンを食べたり、その杯を飲んだりする者は、主の体と血に対して罪を犯すことになります」(27節)という言葉です。個人的なふさわしさではないのです。「主の体」とは、教会のことです。教会を見くびり、兄弟姉妹を侮りながら、食卓から食べたり飲んだりするのはふさわしくない、と言っているのです。コリント教会では、富んでいる人たちが先に食事をたいらげてしまい、仕事を終えて後から来た貧しい兄弟姉妹に食べる物が残されませんでした。「空腹の者がいるかと思えば、酔っている者もいるという始末」(Tコリ11:21)で、教会内には「弱い者や病人がたくさんおり、多くの者が死んだ」(11:30)とまでパウロは語っています。この食卓から遠ざけられた人は、飢え、弱り、死んでしまうのです。まったく大げさな話ではありません。わたしたちの教会は、主のいのちを分かち合う器としてふさわしいものであるでしょうか。わたしたちは主の体である教会を見くびってはないでしょうか。

  主御自らがおいでくだり、わたしたちの間で、パンを裂かれます。「これはあなたがたのためのわたしのからだである」(24節)と。このパンは、この「わたし」のためであるばかりでなく、「あなた」のためであるばかりでなく、「あなたがたのため」、「わたしたち」のために裂かれました。このパンに与るとき、わたしたちは隣にいる人に無関心であることはできません。まだ聖餐に与ることのない人のためにも、主がこのパンを裂かれたことを無視することはできません。わたしたちは、再び主が来られるときまで、主の死を告げ知らせるのです。引き裂かれたこの世界のただ中で、裂かれた主の体をひとつとしていく業に、わたしたち一人ひとりが参与していくのです。

祈り


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Tel/Fax 0246-21-2145
          いわき きょうかい
日本キリスト教団 磐 城 教 会
牧師 上竹 裕子
更新:2016.9.9

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