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聖霊降臨節第12主日 ≪聖 餐≫
礼拝説教抄録

日本キリスト教団磐城教会 2016年7月31日
 36ギデオンは神にこう言った。「もしお告げになったように、わたしの手によってイスラエルを救おうとなさっているなら、37羊一匹分の毛を麦打ち場に置きますから、その羊の毛にだけ露を置き、土は全く乾いているようにしてください。そうすれば、お告げになったように、わたしの手によってイスラエルを救おうとなさっていることが納得できます。」38すると、そのようになった。翌朝早く起き、彼が羊の毛を押さえて、その羊の毛から露を絞り出すと、鉢は水でいっぱいになった。39ギデオンはまた神に言った。「どうかお怒りにならず、もう一度言わせてください。もう一度だけ羊の毛で試すのを許し、羊の毛だけが乾いていて、土には一面露が置かれているようにしてください。」40その夜、神はそのようにされた。羊の毛だけは乾いており、土には一面露が置かれていた。
士師記 6章36〜40節
 1イエスがメシアであると信じる人は皆、神から生まれた者です。そして、生んでくださった方を愛する人は皆、その方から生まれた者をも愛します。2このことから明らかなように、わたしたちが神を愛し、その掟を守るときはいつも、神の子供たちを愛します。3神を愛するとは、神の掟を守ることです。神の掟は難しいものではありません。4神から生まれた人は皆、世に打ち勝つからです。世に打ち勝つ勝利、それはわたしたちの信仰です。5だれが世に打ち勝つか。イエスが神の子であると信じる者ではありませんか。
ヨハネの手紙一 5章1〜5節

1.神の子ども
  日々深刻なニュースが更新されていく中で、こればかりを挙げるわけないと思いながらも、本当にショックな事件を憶え祈らずにはおられません。だれが生きる価値のある者で、だれが生きる価値の無い者かを、だれかが決めることができるという歪んだ思考から、相模原の障害者施設で、悲劇が起こりました。

  ある中年の方が、最近老眼になってきたことで、自分も障害者なのだと気づいたと話してくださいました。ある人々はアンチエイジングのために努力しますが、加齢によって目が見えにくくなり、耳が聞こえにくくなり、足も弱くなっていくことは自然のことです。長年働いている身体が、故障することもあります。病を得ることがあり、突然の事故に遭うこともあります。健康と思っていても障害を得ることは、だれにでもあり得ることです。肉体あるわたしたちにとって、もっとも身近な障害という事実が無意味なものであるならば、人間存在そのものが無意味なものになってしまいます。

  古来人々は、障害を負って生きることの苦しみの理由を問うてきました。障害は、答えのない問題でした。主イエス・キリストが生まれつき目の見えない人に出会われたとき、一緒にいた弟子たちが主に尋ねました。「先生、この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも両親ですか」(ヨハ9:2)。しかし、主イエスははっきりと答えられました。「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである」(ヨハ9:3)。この人の障害には意味がある。それどころか、この人の障害には大きな使命があるとおっしゃったのです。わたしたち一人ひとりは、神から固有の課題を与えられています。それは、わたしたちの使命に関わることなのです。わたしたち一人ひとりの命をおつくりになった造り主を抜きにして、人が人の使命を決めることはできません。わたしたちは皆、等しく神から使命をいただいて、共に生きる者なのです。

  「イエスがメシアであると信じる人は皆、神から生まれた者です」(1節)。と聖書は語りかけます。この言葉は、信仰者が、神の子としての新しい歩みを始めるとき、特に、キリスト者とされる洗礼と結びつけて受け止められ、聞かれてきた言葉です。聖書には、神を信じて生きる人たちを「神の民」(Tペト2:10)と呼んでいます。「神の僕」(Tペト2:16)と呼ぶこともあります。あるいは、預言者に対しては「神の人よ」(列上17:18)と呼びかけられる場面があります。しかし、ここでわたしたちは「神の民」と言うよりも、「神の僕」と言うよりも、「神から生まれた者」「神の子供」として呼びかけられています。わたしたちは神の子どもであるのです。主イエスは、子どもたちが神の国にもっとも近いと言われました。子どもたちを指して「神の国はこのような者たちのものである」(マコ10:14)と言われました。

2.天の父よ
  神の子どものようにいつも振る舞っていなくても、神の子どものようにいつも感じていなくても、神の子どもであることが信じられないときでさえも、わたしたちは神の子どもです。この事実はわたしたちの人間的センスを土台とするものではありません。わたしたちが神を「父」と呼ぶ前に、神がわたしたちを「子よ」と呼ばれたのです。

  主イエス・キリストが「こう祈りなさい」(マタ6:9)とお教えくださった「主の祈り」という祈りがあります。礼拝でも祈り会にも、主の祈りを祈ります。キリスト教のもっとも代表的な祈りであり、どんなときにも祈られます。

  先月、天に召された姉妹の病床を訪ねたときに、姉妹は「主の祈りを忘れそう」と言って、病室に持ち込んでいた讃美歌集から、小さな紙切れに鉛筆で「主の祈り」を書き出していました。入院当初は、しばらくはそのようなことはおっしゃらなかったのですが、すい臓がんの末期で痛みが強くなっていくと、「痛みが来ると錯乱して何もわからなくなってしまう」とおっしゃったほどでした。この痛みが襲って来る中で「主の祈り」を忘れないようにと、何か所も間違え、書き直しながら、ご自分の手で「主の祈り」を書き出されました。病床の姉妹からわたしも何度かメモをいただきましたが、最後に残されたのがこの「主の祈り」でした。「主の祈り」は、わたしたちが最初に憶える祈りであり、わたしたちがどう祈ったらよいのかまったくわからなくなってしまうときに祈ることのできる最後の祈りであるのかもしれません。

  主の祈りは、「天にましますわれらの父よ…」という呼びかけに始まります。「天の父よ」。いつも最初にこのように呼びます。キリスト者が神に祈るときに、最初にどう呼びかけるかは、必ずしも同じではありません。その方の信仰の表れる呼びかけです。ある人は、「聖なる御神」と呼びかけます。神は、「高く、あがめられて、永遠にいまし その名を聖と唱えられる方」(イザ57:15)であられます。わたしが育った教会のある長老は、いつも「天のお父さま」と呼びかけました。子どもたちも同じように「天のお父さま」と祈っていました。神が「天のお父さま」であるという祈りを最初に聞いた時、高校生だったわたしは驚きを覚えました。

  「主の祈り」は、日本語では「天にまします」と始まりますが、英語では「Our Fatherわれらの父」から始まります。主イエスが最初に口にされた言葉もまた「われらの父」(Pa,ter h`mw/n)でした。「わたしたちの父」という言葉がいちばん初めにあります。また、わたしたちが礼拝ごとに告白している「使徒信条」においても、日本語では最初にくるのは「天地の造り主」という言葉ですが、ラテン語の原文を直訳すれば次のように並んでいます。「我信ず、父なる神、全能の、天地の造り主の」。「父なる神」(deum patrem)という言葉が最初にあります。神がわたしたちの父であられるということが、教会の信仰の中心にあるからです。

3.主イエスが兄弟となった
  神は、どのような意味でわたしたちの父であられるのでしょうか。「主の祈り」を教えられた主御自らが「アッバ、父よ」(マコ14:36)と祈られました。「アッバ」という言葉は、主イエスの言語であったといわれるアラム語で、「お父さん」、あるいは「パパ」というように、小さい子どもが父親を呼ぶ言葉です。どんなに小さな子どもでも、父や母を呼ぶことは知っています。言葉を覚え始めた幼児が初めて口にする言葉がこの「アッバ」だとも言われます。ここに家父長的な、権威的なイメージとしての「父」は一切ありません。

  主イエスの物語の中で最古の伝承であると言われている「放蕩息子のたとえ」があります(ルカ15:11〜32)。主イエスのこのたとえは、父なる神のイメージを決定的なものとしています。放蕩息子のたとえに登場するふたりの息子たちは、父の財産に与っています。弟息子は、遺産の分け前を要求し、父の存在を無視して自分の道を行こうとします。とんでもない浪費生活を送り、その果てに大飢饉に遭って、気づけば外国で豚を飼う雇い人の一人となっていました。彼はその餌ほどの食べ物さえも満足に与えられないほど卑しい者とされたときに、我に返ります。「父の家に帰ろう」と決めます。親不孝などというものではない、本当にどうしようもないこのドラ息子が帰ってきたときに、父は仁王立ちになって顔を真っ赤にして「コラー!謝れ!」とか、「金を返せ!」とか、「働いて償え!」とかとは言いませんでした。ただ息子に走り寄って首を抱き寄せて、接吻します。ごちそうを囲んでパーティーが始まりました。この父が、わたしたちを「子よ」と呼ばれるのです。

  父の赦しを理解できない人がいました。兄息子です。自分は、父に忠実に生きてきたのに、こんなごちそうを食べたことはなかったと憤りました。父は兄に優しく諭します。「子よ、お前はわたしといつも一緒にいる。わたしのものは全部お前のものだ。だが、お前のあの弟は死んでいたのに生き返った。いなくなっていたのに見つかったのだ」(ルカ15:31〜32)。

  わたしたちは、父の財産を継承するものとしての子どもです。父は、わたしたちに惜しみなくよいものを与えてくださいます。聖書は、「イエスがメシアであると信じる人は皆、神から生まれた者です」と語った直後に、こう続けます。「そして、生んでくださった方を愛する人は皆、その方から生まれた者をも愛します」(1節)。「愛しなさい」とか「愛さねばならない」というのではありません。わたしたちは、兄弟姉妹を「(必然的に)愛することになる」と言うのです。わたしたちが父を知ったのは、山の奥に分け入って行ったからではなく、畳の部屋で瞑想をしていたからではなく、兄弟姉妹が父を教えてくれたからです。だれも一人で神を愛することはできません。み子イエスが兄弟となってくださったので、わたしたちは、神を愛し、互いに愛し合う者とされているのです。

祈り


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          いわき きょうかい
日本キリスト教団 磐 城 教 会
牧師 上竹 裕子
更新:2016.9.9

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