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平和聖日 ≪神からの真理≫
礼拝説教抄録

日本キリスト教団磐城教会 2016年8月7日
12では、知恵はどこに見いだされるのか 
 分別はどこにあるのか。
13人間はそれが備えられた場を知らない。
 それは命あるものの地には見いだされない。
14深い淵は言う
 「わたしの中にはない。」
 海も言う
 「わたしのところにもない。」
15知恵は純金によっても買えず
 銀幾らと価を定めることもできない。
16オフィルの金も美しい縞めのうも
 サファイアも、これに並ぶことはできない。
17金も宝玉も知恵に比べられず
 純金の器すらこれに値しない。
18さんごや水晶は言うに及ばず
 真珠よりも知恵は得がたい。
19クシュのトパーズも比べられず
 混じりない金もこれに並ぶことはできない。
20では、知恵はどこから来るのか
 分別はどこにあるのか。
21すべて命あるものの目にそれは隠されている。
 空の鳥にすら、それは姿を隠している。
22滅びの国や死は言う
 「それについて耳にしたことはある。」

23その道を知っているのは神。
 神こそ、その場所を知っておられる。
24神は地の果てまで見渡し
 天の下、すべてのものを見ておられる。
25風を測って送り出し 水を量って与え
26 雨にはその降る時を定め
 稲妻にはその道を備えられる。
27神は知恵を見、それを計り
 それを確かめ、吟味し
28そして、人間に言われた。
 「主を畏れ敬うこと、それが知恵
 悪を遠ざけること、それが分別。」
ヨブ記 28章12〜28節
2-11人の内にある霊以外に、いったいだれが、人のことを知るでしょうか。同じように、神の霊以外に神のことを知る者はいません。12わたしたちは、世の霊ではなく、神からの霊を受けました。それでわたしたちは、神から恵みとして与えられたものを知るようになったのです。13そして、わたしたちがこれについて語るのも、人の知恵に教えられた言葉によるのではなく、“霊”に教えられた言葉によっています。つまり、霊的なものによって霊的なことを説明するのです。14自然の人は神の霊に属する事柄を受け入れません。その人にとって、それは愚かなことであり、理解できないのです。霊によって初めて判断できるからです。15霊の人は一切を判断しますが、その人自身はだれからも判断されたりしません。
16「だれが主の思いを知り、
 主を教えるというのか。」
しかし、わたしたちはキリストの思いを抱いています。

 3-1兄弟たち、わたしはあなたがたには、霊の人に対するように語ることができず、肉の人、つまり、キリストとの関係では乳飲み子である人々に対するように語りました。2わたしはあなたがたに乳を飲ませて、固い食物は与えませんでした。まだ固い物を口にすることができなかったからです。いや、今でもできません。3相変わらず肉の人だからです。お互いの間にねたみや争いが絶えない以上、あなたがたは肉の人であり、ただの人として歩んでいる、ということになりはしませんか。4ある人が「わたしはパウロにつく」と言い、他の人が「わたしはアポロに」などと言っているとすれば、あなたがたは、ただの人にすぎないではありませんか。5アポロとは何者か。また、パウロとは何者か。この二人は、あなたがたを信仰に導くためにそれぞれ主がお与えになった分に応じて仕えた者です。6わたしは植え、アポロは水を注いだ。しかし、成長させてくださったのは神です。7ですから、大切なのは、植える者でも水を注ぐ者でもなく、成長させてくださる神です。8植える者と水を注ぐ者とは一つですが、それぞれが働きに応じて自分の報酬を受け取ることになります。9わたしたちは神のために力を合わせて働く者であり、あなたがたは神の畑、神の建物なのです。
コリントの信徒への手紙一 2章11節〜3章9節

1.鐘の音
  認定こども園の園舎建設工事に先立って物置プレハブを撤去した際、掘り出し物が出てきました。教会の鐘楼です。いつ頃からあったものなのでしょう。フレームはひどく錆びついていますが、鐘自体はずっと眠っていたとは思えないような美しい音がします。先週、早速会堂の横に運んで来て、役員会で礼拝前に教会の鐘を鳴らすことを決めました。1月に都心の教会に奉仕に伺った折、ホテルから教会まで向かう道のり、電車を乗り換えようと四谷のホームに降りると、教会の大きな鐘の音が聞こえてきました。教会の鐘は、日曜日の朝、人々を礼拝へと呼び出します。乗り換えの数分間、町中に響き渡る力強い音で鳴り続け、わたしは何かこの音に背中が押されたような不思議な感じを覚えました。

  19世紀のフランスに活躍した、ジャン・フランソワ・ミレーという画家がいます。ミレーは、農家の生まれで、画家となってからも好んで農民の日常を描いていたために、ある人々からは社会主義者であると誤解されることもありました。それに対してミレーはこのように返しています。「美術の使命とは愛の使命であって、憎しみの使命ではありません。また美術は、貧しい人の苦しみを描き出す場合にも、富裕階級に対する妬みを刺激することを目的としてはなりません」。ミレー自身が、生涯貧しさの中で歩んだこと思うと、絵に登場する貧しい農民の姿は、生き方の面でミレーに重なります。
ミレーの代表作のひとつに「晩鐘」という絵があります。日が暮れかけた頃、農作業中の一組の夫妻が、畑の中で、手を合わせて頭を垂れています。はるか遠くにはうっすらと町の教会が見えます。教会の鐘の音が聞こえてきたので、夫婦は労働を中断し、その手を止めました。教会の鐘は、わたしたちの人生の中で、中断すべき時間があることを教えているのです。

  日常生活の中でわたしたちは、自らの思い、自らの考えで歩んでいます。自分の考えで歩むということは、時にわたしたちには誇らしいことであったりします。自分の思いで歩むということは、しかし、時にわたしたちを苦しめます。日常生活の中で、わたしたちは、人の思い、自分が属するものの考えに合わせて歩んでいます。家族の考え。会社の考え。社会の考え。これらも、わたしたちを誇らせ、また苦しめたりします。このわたしたちの日常の中に、神は介入されます。わたしたちの日常の歩みを止めて、わたしたちの労働の手を止めて、自らの営みを中断するよう呼ばれます。神の鐘が鳴り響く時、わたしたちはこの場所に呼び出されます。町の中で同じ鐘の音が鳴っても、これを聞く人も、気にも留めない人もいます。教会。これは、聖書の言葉「エクレーシア」と言います。「エクレーシア」とは、「エク」(〜から)と「カレオー」(呼ぶ)の合成語です。教会は本来「呼び出されたもの」という意味です。神が呼ばれなければ、ここに教会は存在しません。わたしたちは皆、神に呼ばれた者なのです。

2.未熟さからのチャレンジ
  今日、ご一緒に朗読を聞いています聖書は、使徒パウロがコリントの教会へと書き送った手紙の一節です。パウロがこの手紙を書いている理由は、この教会に起こっているさまざまの問題のためでした。コリント教会は、パウロが、テント職人として働きながら、この地に留まって開拓伝道した教会です。使徒言行録には、コリントの多くの人たちが、パウロの説教を聞いて洗礼に導かれたことが記されています(18章)。けれども、パウロが次の伝道地に向けてコリントを去った後、教会内では、徐々に党派のようなものが生まれました。「わたしはパウロにつく」とか、「わたしはアポロに」などと言って人々が対立する事態が起きていました。パウロはこう記しています。「パウロがあなたがたのために十字架につけられたのですか。あなたがたはパウロの名によって洗礼を受けたのですか」(Tコリ1:13)。そうではないはずだ、と。

  パウロは、この地に教会を建てた当時、いわば人々がまだ信仰の乳飲み子であったときのことを振り返りながら、皮肉さえ口にして言います。「わたしはあなたがたに乳を飲ませて、固い食物は与えませんでした。まだ固い物を口にすることができなかったからです。いや、今でもできません。相変わらず肉の人だからです。お互いの間にねたみや争いが絶えない以上、あなたがたは肉の人であり、ただの人として歩んでいる」(3:2〜3)。
コリントの教会は情けない、未熟な教会なのでしょうか。しかし、教会がこのような事態に陥ることは、めずらしいことではありません。否、教会の分裂は、2千年間教会の課題であり続けていると言ってもよいのです。事実、わたしたちの教会の歴史の中でも繰り返されてきたことでした。課題が多いということは、活発な教会であるということもできます。スポーツ選手にけがはつきもののように、わたしたちの体のたくさん使っている部分が傷みやすいように、教会が多様な人たちを迎えようとするとき、チャレンジを経験します。課題があること自体は、何もおかしいことではありません。しかし、これをチャレンジと受け止められずに、それぞれが自らの正しさを通そうとするとき、教会は分裂します。

  パウロは、どちらが正しいとは言いませんでした。どちらの言い分も聞く必要はありませんでした。パウロは、ただ問題の根本にあるものを精確に読んでいます。教会の分裂の原因は、人々が、この世の者の知恵に従って判断していることなのです。キリストに召された者としてではなく、「肉の人」として、「ただの人として歩んでいる」ことです。それをよしとするならば、わたしたちは、いつまで経ってもミルクしか飲むことのできない赤ん坊のままです。本来、「乳飲み子」というのは、聖書で積極的な表現です。「生まれたばかりの乳飲み子のように、混じりけのない霊の乳を慕い求めなさい」(Tペト2:2)。しかし、わたしたちは乳飲み子で居続けてよいでしょうか。

3.ひとつの味
  神は、わたしたちが霊的な乳を飲むことによって成長し、信仰者として成熟してほしいとお望みくださっています。信仰者として成熟することとは、どのようなことであるでしょうか。コリント教会の人々が分裂に陥ったのは、むしろ、自分たちがあるレベルに達した、成熟した信仰者だと思っていたからです。誇りがないからではなく、誇りがあるから、教会が分裂するのです。

  霊的な成熟を測る真の尺度は、共同体の一致と平和です(R.B.ヘイズ)。一致と平和のない教会は、どんなに教理的な正しさを身につけていても、どんなに多くの賜物を発揮しても、どんなに社会的な影響力を持っていたとしても、またどんなに敬虔な祈りをしているように見えていても、そのような教会でさえも、交わりの中に一致と平和を欠くならば、成熟した教会とは言えません。一致と平和を実現するための歩みを重ねるとき、わたしたちは今まで口にすることのできなかった、より味わい深い、堅い食べ物をいただくことができるのです。

  今年も、この平和聖日を迎えました。昨日、8月6日は、71年前に広島へ原爆が投下された日でした。平和記念式典で、原爆が投下された8時15分に「平和の鐘」が鳴らされます。一同が頭を垂れ、祈ります。平和の鐘は、耳から入り、しかし、ただ耳で聞くばかりでなく、まるで薬のように、わたしたちの体内に入り、わたしたちの奥深くに作用します。
わたしたちは日曜日に、この鐘の音を聞きます。この鐘の音を聞くとき、わたしたちの自らの思いは、沈黙させられます。わたしたちは、この鐘の音を共に聞くことによって、世の思いを中断させ、共に「キリストの思い」(2:6)を抱く者へと変えられていくのです。主御自らが、わたしたちにご自分のいのちを分け与えるために、ご自分のみ体を裂かれました。ご自分の歩みに苦難を引き受けられ、十字架の上にご自分のいのちをささげてくださいました。教会は、豊かに与えるために裂かれたキリストの体です。

  十字架におかかりになる前の晩、主は弟子たちと共に食卓を囲まれました。食卓の中心で、パンを取り、これを裂いて言われました。「これは、あなたがたのためのわたしの体である」(Tコリ11:24)。今日、わたしたちの間に主が食卓を開いてくださいます。このパンに与るとき、わたしたちは、「わたしの体である」と言われるキリストのいのちをいただきます。この食卓に与るとき、わたしたちは同時に、主の体なる教会を食しているのです。わたしたちは、このパンによってひとつ体となっていきます。「アポロとは何者か。また、パウロとは何者か」(3:5)。パウロは答えを用意しています。「わたしは植え、アポロは水を注いだ。しかし成長させてくださったのは神です」(3:6)。教会は「神の畑」(3:9)であり、わたしたちはひとつの収穫を望み、農作業を共に行います。共に労苦することを通して「キリストの思い」を抱くひとつの体とされていくのです。

祈り


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Tel/Fax 0246-21-2145
          いわき きょうかい
日本キリスト教団 磐 城 教 会
牧師 上竹 裕子
更新:2016.9.9

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