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聖霊降臨節第15主日 ≪新しい人間≫
礼拝説教抄録

日本キリスト教団磐城教会 2016年8月21日
 17さて、ファラオが民を去らせたとき、神は彼らをペリシテ街道には導かれなかった。それは近道であったが、民が戦わねばならぬことを知って後悔し、エジプトに帰ろうとするかもしれない、と思われたからである。18神は民を、葦の海に通じる荒れ野の道に迂回させられた。イスラエルの人々は、隊伍を整えてエジプトの国から上った。19モーセはヨセフの骨を携えていた。ヨセフが、「神は必ずあなたたちを顧みられる。そのとき、わたしの骨をここから一緒に携えて上るように」と言って、イスラエルの子らに固く誓わせたからである。20一行はスコトから旅立って、荒れ野の端のエタムに宿営した。21主は彼らに先立って進み、昼は雲の柱をもって導き、夜は火の柱をもって彼らを照らされたので、彼らは昼も夜も行進することができた。22昼は雲の柱が、夜は火の柱が、民の先頭を離れることはなかった。
出エジプト記 13章17〜22節
11実を結ばない暗闇の業に加わらないで、むしろ、それを明るみに出しなさい。12彼らがひそかに行っているのは、口にするのも恥ずかしいことなのです。13しかし、すべてのものは光にさらされて、明らかにされます。14明らかにされるものはみな、光となるのです。それで、こう言われています。「眠りについている者、起きよ。死者の中から立ち上がれ。そうすれば、キリストはあなたを照らされる。」

 15愚かな者としてではなく、賢い者として、細かく気を配って歩みなさい。16時をよく用いなさい。今は悪い時代なのです。17だから、無分別な者とならず、主の御心が何であるかを悟りなさい。18酒に酔いしれてはなりません。それは身を持ち崩すもとです。むしろ、霊に満たされ、19詩編と賛歌と霊的な歌によって語り合い、主に向かって心からほめ歌いなさい。20そして、いつも、あらゆることについて、わたしたちの主イエス・キリストの名により、父である神に感謝しなさい。
エフェソの信徒への手紙 5章11〜20節

1.キリストの新しさ
  「眠りについている者、起きよ。死者の中から立ち上がれ。そうすれば、キリストはあなたを照らされる」(14節)。このみ言葉は、初代教会の讃歌、しかも、洗礼を授けるときに使われた讃歌の一節と言われています。洗礼は、眠りについた人たちの間から、呼び覚まされて、立ち上がることです。わたしたちのうちの古い自分は、十字架で死なれたキリストと共に葬られます。わたしたちがキリストと共に死ぬのは、キリストと共に死者の中から復活させられて、新しい人として生きるためです。

  今日の聖書の後半部には、キリスト者とされた者の生き方が示されています。おもに3つのことが言われています。「愚かな者としてではなく、賢い者として」(15節)歩みなさい。また「無分別な者とならず、主の御心が何であるかを悟りなさい」(17節)。「酒に酔いしれ」(18節)るのではなく、「霊に満たされ」なさい。これらの言葉は、わたしたちの日常生活に目を向けさせます。

  「愚かな者としてではなく、賢い者として、細かく気を配って歩みなさい」(15節)。自分が愚者のように歩んでいないか、賢い者として歩んでいるか、わたしたちはよくよく吟味しなければなりません。「無分別な者とならず、主の御心が何であるのかを悟りなさい」(17節)。主を知らない者としてではなく、知る者として歩みなさいと語りかけるのです。

  ひとつの祈りを思い起こします。第二次世界大戦中、戦場に送り出された兵士たちの間で祈られ、メモのような形で広がっていったと言われている祈りです。「神よ、変えることのできるものについて、それを変えるだけの勇気を我らに与えたまえ。変えることのできないものについては、それを受け入れるだけの冷静さを与えたまえ。そして、変えることのできるものと、変えることのできないものとを、識別する知恵を与えたまえ」

  わたしたちの間では、「変えることのできるもの」があります。しかし、わたしたちはそれらを、なぜなのか、変えることはできないと思っています。自分にそのような力はない、と思っています。勇気の足りないことがどんなに多いことかと思います。わたしたちの間では、「変えることのできないもの」があります。わたしたちの力では動かすことのできない現実がのしかかってくることがあります。それに押しつぶされないためには、逃げるしかないと思っています。しかしそれらは、逃げるべきことではなく、受け入れるべきことなのです。どんなに苦しくても、つらくても、受け入れなければならない現実があります。わたしたちは、自分で自分の道を100パーセント切り開くことなどできません。もっとも根本的なことは、変えることのできるものと、変えることのできないものとを見分ける知恵です。聖書が語る分別ある者と「無分別な者」との違いは、「主の御心が何であるのか」をしっかり見つめているか否かです。

2.お酒の問題
  次の言葉は唐突に聞こえるかもしれません。「酒に酔いしれてはなりません」(18節)。道徳的な教えに聞こえて、耳が痛いと感じる方もあるかもしれません。わたしたちの教会では、震災直後から毎週火曜日の夕べに、AA(アルコホーリクス・アノニマス「無名のアルコール依存症者たち」)ミーティングのために会場を提供しています。AAとは、アルコール依存症の人たちの自助グループで、回復プログラムを用いたミーティングは世界的な運動となっています。わたしがAAに出会ったのは学生時代でした。

  当時、仙台でホームレスの人たちの自立支援をするNPOに関わっていました。そこでまず気づかされたことは、男性のホームレスの人たちの多くが、アルコール依存症であるということです。お酒がもとで、仕事や家族を失って、路上に出てしまう人がいます。その逆で、仕事や家族を失ってしまった人たちが、お酒におぼれることがあります。飲めば飲むほど渇く海水のように、お酒を求め、我慢できずに盗みをはたらく人もいました。ホームレスの人たちの安否を尋ねる夜回り中に、飲みすぎて吐血した人のために救急車を呼ぶこともありました。夜回りが終わって、町のアーケードを歩いて家に帰ろうとすると、酔っぱらった学生たちが道端で吐いたりしていました。楽しく晩酌をしている人たちに水を差すような少しグロテスクな話になってしまいましたが、聖書を読んでいて、お酒について語っている箇所に当たるたびに、彼らの顔を思い浮かべずにはいられません。お酒というのは、聖書の日常の中でも、もっとも身近な飲み物です。主イエスも楽しく飲み食いされました。禁欲的な生活をしていた人たちからは、「見ろ、大食漢で大酒のみだ」(マタ11:19)などと非難されたほどでした。主イエスが禁酒令を出されることはありませんでした。

  しかし、ある人たちにとって、お酒を飲むことは、飲食のたのしみを越えています。お酒を飲むことは、つらい現実から逃げる手段です。お酒は孤独を和らげてくれる道具となっています。痛みを感じないようにしてくれる道具となっています。思い出したくない失敗があり、恥があるとき、お酒が必要になるのです。お酒のネガティブな面をあえて申し上げました。そんなに深刻でないとしても、一日の疲れ、満たされない思いをお酒で解消している人は少なくありません。

  わたしたちは、いつも何かに満たされることを追い求めています。満たされていないと感じれば、満たしてくれるものを求めて、楽しいもの、刺激的なもの、好奇心をそそるものを求めます。虚脱感、空虚な感じに耐えられません。わたしたちの住む社会では、幸せを追求することが、人生のすべてであるかのようです。その欲求を満たしてくれそうなものの象徴がお酒であると言えるかもしれません。しかし、わたしたちの渇望は、地上にいる限り決して満たされることはないのです。

3.聖霊に満たされる礼拝
  この地上で、完全に満たされることのないわたしたちは、どうすればよいのでしょうか。主の「霊に満たされ」(19節)なさい、と聖書は語りかけます。霊に満たされることは、何かトランス状態になったり、神秘的な経験をすることではありません。霊的に満たされる経験は、わたしたちの日曜日ごとの礼拝の中で生まれます。聖書は具体的にこのように勧めます。「詩編と賛歌と霊的な歌によって語り合い、主に向かって心からほめ歌いなさい」(19節)。「詩編と賛歌と霊的な歌」を歌うこと、しかも心からほめ歌うことなのだと言います。

  「詩編」「賛歌」「霊的な歌」、この3つの歌は、3つが別々の歌として明確に区別されているのではなく、むしろ、神讃美を指す時に、一つの言葉に限定せずに言葉を重ねるユダヤの伝統を受け継いでいるものです。いずれも、礼拝の歌の3通りの表現です。旧約聖書の時代から、神の民は豊かな礼拝讃美を持ってきました。神への讃美が、世界の音楽史に与えてきた影響は疑いようもありません。

  わたしたちは教会の言葉をもって、自ら十分に表現できない思いを表します。東日本大震災の後、わたしたちの教会のもっともつらい経験のひとつは、祈る言葉を失ったことでした。だれもが疲れや嘆きを感じていましたが、そのような感情は深いところに隠されていて、言葉で表現することは容易なことではありませんでした。また、さまざまの背景を負った、さまざまな立場の人が礼拝に集っていました。この礼拝の中で、同じ祈りを祈ること、ひとつの祈りの言葉を紡ぎ出すことが困難になりました。祈りの言葉によって、人を傷つけるということがあることを知りました。どう祈ればよいのか、まったくわからなくなってしまったのです。このときしかし、祈れないわけではありませんでした。わたしたちの助けとなったのは、詩編でした。礼拝の中で、嘆きの詩編を長い間祈り続けました。嘆きの中にも、たしかに神への感謝がありました。どのように表現したらよいのかわからない感謝がありました。わたしたちは、言葉にならない思いを歌いました。讃美歌を歌うと、心が解放されると話してくださる方がいます。カラオケに行って、すばらしい音響で讃美歌を上手に歌っても、このような思いにはならないはずです。ここに神がおいでくださるので、わたしたちの声は聞き上げられる歌となるのです。

  聖書が、讃美によって互いに「語り合いなさい」と勧めていることは、興味深いことです。ただ詩編を奏でなさいとか、讃美歌を歌いなさいとかと言っているのではないのです。「詩編と賛歌と霊的な歌によって語り合い」なさい、とあります。わたしたちが礼拝の中で、歌によって自由に語り合うことができるというのです。礼拝の中で、わたしたちは孤独ではありません。神と語り合い、友と、しかも地上ばかりでなく、天上にある友と豊かに語り合います。讃美を歌うとき、わたしたちは共に神の永遠に触れているのです。


祈り


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          いわき きょうかい
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牧師 上竹 裕子
更新:2016.9.9

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