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聖霊降臨節第16主日 ≪神に属するもの≫
礼拝説教抄録

日本キリスト教団磐城教会 2016年8月28日
 1その同じ年、ユダの王ゼデキヤの治世の初め、第四年の五月に、主の神殿において、ギブオン出身の預言者、アズルの子ハナンヤが、祭司とすべての民の前でわたしに言った。
 2「イスラエルの神、万軍の主はこう言われる。わたしはバビロンの王の軛を打ち砕く。3年のうちに、わたしはバビロンの王ネブカドネツァルがこの場所から奪って行った主の神殿の祭具をすべてこの場所に持ち帰らせる。4また、バビロンへ連行されたユダの王、ヨヤキムの子エコンヤおよびバビロンへ行ったユダの捕囚の民をすべて、わたしはこの場所へ連れ帰る、と主は言われる。なぜなら、わたしがバビロンの王の軛を打ち砕くからである。」
 5そこで、預言者エレミヤは主の神殿に立っていた祭司たちとすべての民の前で、預言者ハナンヤに言った。6預言者エレミヤは言った。
 「アーメン、どうか主がそのとおりにしてくださるように。どうか主があなたの預言の言葉を実現し、主の神殿の祭具と捕囚の民すべてをバビロンからこの場所に戻してくださるように。7だが、わたしがあなたと民すべての耳に告げるこの言葉をよく聞け。8あなたやわたしに先立つ昔の預言者たちは、多くの国、強大な王国に対して、戦争や災害や疫病を預言した。9平和を預言する者は、その言葉が成就するとき初めて、まことに主が遣わされた預言者であることが分かる。」
 10すると預言者ハナンヤは、預言者エレミヤの首から軛をはずして打ち砕いた。11そして、ハナンヤは民すべての前で言った。
 「主はこう言われる。わたしはこのように、二年のうちに、あらゆる国々の首にはめられているバビロンの王ネブカドネツァルの軛を打ち砕く。」
 そこで、預言者エレミヤは立ち去った。
 12預言者ハナンヤが、預言者エレミヤの首から軛をはずして打ち砕いた後に、主の言葉がエレミヤに臨んだ。
 13「行って、ハナンヤに言え。主はこう言われる。お前は木の軛を打ち砕いたが、その代わりに、鉄の軛を作った。14イスラエルの神、万軍の主はこう言われる。わたしは、これらの国すべての首に鉄の軛をはめて、バビロンの王ネブカドネツァルに仕えさせる。彼らはその奴隷となる。わたしは野の獣まで彼に与えた。」
 15更に、預言者エレミヤは、預言者ハナンヤに言った。
 「ハナンヤよ、よく聞け。主はお前を遣わされていない。お前はこの民を安心させようとしているが、それは偽りだ。16それゆえ、主はこう言われる。『わたしはお前を地の面から追い払う』と。お前は今年のうちに死ぬ。主に逆らって語ったからだ。」
 17預言者ハナンヤは、その年の七月に死んだ。
エレミヤ書 28章1〜17節
10神の子を信じる人は、自分の内にこの証しがあり、神を信じない人は、神が御子についてなさった証しを信じていないため、神を偽り者にしてしまっています。11その証しとは、神が永遠の命をわたしたちに与えられたこと、そして、この命が御子の内にあるということです。12御子と結ばれている人にはこの命があり、神の子と結ばれていない人にはこの命がありません。

 13神の子の名を信じているあなたがたに、これらのことを書き送るのは、永遠の命を得ていることを悟らせたいからです。14 何事でも神の御心に適うことをわたしたちが願うなら、神は聞き入れてくださる。これが神に対するわたしたちの確信です。15わたしたちは、願い事は何でも聞き入れてくださるということが分かるなら、神に願ったことは既にかなえられていることも分かります。
 16死に至らない罪を犯している兄弟を見たら、その人のために神に願いなさい。そうすれば、神はその人に命をお与えになります。これは、死に至らない罪を犯している人々の場合です。死に至る罪があります。これについては、神に願うようにとは言いません。17不義はすべて罪です。しかし、死に至らない罪もあります。
 18わたしたちは知っています。すべて神から生まれた者は罪を犯しません。神からお生まれになった方が、その人を守ってくださり、悪い者は手を触れることができません。19わたしたちは知っています。わたしたちは神に属する者ですが、この世全体が悪い者の支配下にあるのです。20わたしたちは知っています。神の子が来て、真実な方を知る力を与えてくださいました。わたしたちは真実な方の内に、その御子イエス・キリストの内にいるのです。この方こそ、真実の神、永遠の命です。21子たちよ、偶像を避けなさい。
ヨハネの手紙一 5章10〜21節

1.祈りを教えてください
  先週、わたし自身の教会生活の中で立ち止まるきっかけとなった言葉がありました。ひとりの方が、わたしに「この教会のヴィジョンが見えない」と率直にお話しくださいました。教会の中でこのようなことを話題にすることは、とても大切なことですが、実際に口にすることは勇気のいることで、だれにでもできることではないと思います。でも、きっとそのように感じている方は、少なからずいらっしゃるのだろうとわたしは思っています。

  今年度、わたしたちの教会は、「祈りの共同体―祈りを教えてください」という主題の下に歩んでいます。祈りにおいて貧しい教会となっていないか。わたしたちが祈りにおいて習熟するとは、どういうことなのか。共に知り、共に考えることがわたしたちの教会には必要です。明確なヴィジョンがないから教会が祈りに倦んでいるということが言えるかもしれません。「幻がなければ民は堕落する」(箴29:18)と聖書は語ります。ヴィジョンは、自らつくり出すものではなく、共に与えられるものです。毎週礼拝に集っていても、ヴィジョンが見えないということは苦しいことです。しかし、そのような苦しみをだれかが感じていて、共有しようとしてくださるのであれば、この教会は変化し、成長する可能性があるということです。教会が変わるイメージを持つことができるのは、悔い改めるときです。悔い改めの祈りなしに救いを願うことは、虚しいことです。

  今日ご一緒に聞いていますみ言葉は、ヨハネの手紙一の結びに当たる部分です。新共同訳の聖書では、12節―あるいは13節―までがひとつの区切りで、著者であるヨハネは、ここで言いたいことをすべて言い切っているようにも思えます。ヨハネがもっとも伝えたかったことは、御子と結ばれている人には永遠の命が与えられているということです(12節)。ヨハネは、手紙の冒頭にこのように記していました。「初めからあったもの、わたしたちが聞いたもの、目で見たもの、よく見て、手で触れたものを伝えます。すなわち、命の言について。―この命は現れました。御父と共にあったが、わたしたちに現れたこの永遠の命を、わたしたちは見て、あなたがたに証しし、伝えるのです」(Tヨハ1:1〜2)。永遠の命に生かされることのすばらしさ、これを持たないことの心もとなさを、ヨハネはこの手紙を通して伝えてきました。

  12、13節で、永遠の命についてひとつの結びとなる言葉を記しています。そうしながらも、ヨハネはさらに、14節以下の言葉を加筆しました。祈りについて、ふたつのことを書き留めたのです。ひとつは、祈りのたしかさです。祈りは自由なものです。けれども、自然的欲求のおもむくままに、何でも好きなことを願うことが、祈りではないということも、わたしたちも知っています。祈りはわたしたちがすでに知っているものであり、しかしまた、わたしたちがいつも教えていただかねばならないものなのです。

2.とりなしの使命
  祈りについて、もうひとつのことが言われています。次の節で、とりなしの祈りが勧められています。「死に至らない罪を犯している兄弟を見たら、その人のために神に願いなさい。…死に至る罪があります。これについては、神に願うようにとは言いません」(16節)。「死に至る罪」という言葉を耳にするとき、困惑を覚えます。「死に至る罪」とは何であるのか、聖書の研究者たちの間でも多くの議論を呼んできた言葉です。ここでは「死に至る罪」が何であるかではなく、「死に至らない罪を犯している兄弟」のために祈りなさいと、祈るべき相手が限定されています。とりなしの祈りの限界が述べられているとも言えます。奇妙なことに感じられるでしょうか。しかし、この世界のブラックホールのような部分のあることを、わたしたちは認めざるを得ないのではないでしょうか。

  この世界には、わたしたちが解くことのできない問題があります。触れることもできない深い淵があります。自然災害などがまさにそれで、わたしたちはこれを説明する言葉を持っておりません。災害ばかりではありません。中学生ほどの少年グループが、16歳の少年を集団でリンチして殺してしまったという事件が起こりました。昨年、同じような仕方で、川崎の13歳の少年が亡くなったばかりでした。これほどの悲劇をだれが説明できるでしょうか。犯罪心理学の専門家でしょうか。医者や教育評論家でしょうか。この事件を正しく裁くことができるのは、いったいだれであるでしょうか。

  生後すぐに虐待されて死んだ子どもがいます。このひとりの子どもの命について、わたしたちは納得できる答えを見出すことができるでしょうか。この世界には闇があり、わたしたち人と人との間にも、深い闇があります。わたしたち人間が、裁くことも赦すこともできない、説明することも許されない、「死に至る罪」の闇があります。究極的なところでわたしたちの触れることのできないブラックホールがあるのです。これらについて、「祈るな」と言われているわけではありません。ただ、わたしたちが責めを負わないものがあると言われているのです。これとは逆に、責めを負うものがある、と言います。わたしたちに委ねられている分があると言います。このとりなしの業こそ、神がわたしたちに委ねられた教会の使命です。

  わたしたちの執り成しを必要としている人たちがいます。わたしたちには、その隣人の姿が見えているでしょうか。「死に至らない罪を犯している兄弟を見たら、その人のために神に願いなさい」と呼びかけられます。罪ある者が、罪ある者のために祈ることなどどうしてできるだろうかと思われる方もあるかもしれません。自分は祈られることはあっても、人のために祈ることはできない、と。何か上から目線に感じるのかもしれません。わたしたちはたしかに、教会に集っていても、キリスト者であっても罪人です。

3.中景を見ること
  しかしながら、決定的に違うことがあります。神が、わたしたちのためにとりなしてくださっているということです。宗教改革者のマルティン・ルターが言いました。「とりなしの祈りとは、だれかに天使を送ることです」と。

  神は、この地上をご覧になり、居ても立ってもいられなくなり、ご自分の独り子を世に送られました。み子は、2千年前に世に来られて、この世界のただ中にお住まいになられました。み子キリストという永遠の命が、わたしたちの間に宿られたというのは、輝かしい世界ではなく「暗闇の中に輝く光」として宿られたのです(ヨハ1:5)。わたしたちの上に、暗い夜の日がやって来るとしても、神の光はその夜のただ中に、夜を過ごさねばならないわたしたちのただ中に、留まっていてくださいます。わたしたちの内に、み子キリストがお住まいになります。地上にあって限りある、罪あるわたしたちが、永遠の命を持つものとなるのです。わたしたちは、価のないものであるにもかかわらずこの命のギフトをいただいているのです。

  わたしたち信仰者にとって、3つの大切なヴィジョンがあります。第一の視点は「遠景」です。神の全世界レベルのご計画を心に留めていることが大切です。わたしたちの触れることのできないところも、被造世界の隅々に至るまで、造り主なる神のみ手の内にあることをわたしたちは信じています。このことを、わたしたちの信仰の「遠景」と言うことができます。第二の視点は「近景」です。神が、他でもないこのわたしと共にいてくださるという信仰です。宇宙世界から見れば塵のようなミクロの存在に過ぎないこのわたし自身に対する、あなた自身に対する、神のご意志を知っていることです。自身がたしかにわかっているということが、信仰の「近景」です。そして第三の視点は「中景」です。神が支配されるという神の国の「遠景」があり、この神がわたしと共にあるという「近景」があります。その中間にあるのが、「中景」です。わたしたちの教会が、見えにくくなっているのが「中景」であるのかもしれません。

  世界と個としてのわたしの間には、必ずコミュニティが存在します。もし、わたしたちが「遠景」しか見えず、地球の救済ばかりを考えているなら、超能力が必要でヘッドギアのようなものをかぶるしかなくなってしまいます。実際、そのようなカルトが生まれました。一方で、わたしたちは、孤独の中で救われるのではありません。自分だけがわかっている信仰などはありえません。わたしたちは皆、他者によって、また他者と共に、キリストを知ります。教会というコミュニティの中で、永遠の命を与えられるのです。この交わりの中に「中景」があります。「中景」は、ただ教会という共同体にとどまらず、わたしたちの家族や友人、同僚たち、もっとも身近な隣人との関わりの中で拡大していきます。この「中景」にだれを憶え、招くことができるでしょうか。だれのために祈ることができるでしょうか?


祈り


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          いわき きょうかい
日本キリスト教団 磐 城 教 会
牧師 上竹 裕子
更新:2016.9.9

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