印刷用PDF(A4版)
聖霊降臨節第17主日 ≪上に立つ人々(魂の牧者のもとで)
礼拝説教抄録

日本キリスト教団磐城教会 2016年9月4日
4 その日、その時には、と主は言われる。
 イスラエルの人々が来る
 ユダの人々も共に。
 彼らは泣きながら来て
 彼らの神、主を尋ね求める。
5 彼らはシオンへの道を尋ね
 顔をそちらに向けて言う。「さあ、行こう」と。
 彼らは主に結びつき
 永遠の契約が忘れられることはない。

6 わが民は迷える羊の群れ。
 羊飼いたちが彼らを迷わせ
   山の中を行き巡らせた。
 彼らは山から丘へと歩き回り
 自分の憩う場所を忘れた。
7 彼らを見つける者は、彼らを食らった。
 敵は言った。「我々に罪はない。
 彼らが、まことの牧場である主に
 先祖の希望であった主に罪を犯したからだ」と。
エレミヤ書 50章4〜7節
 11愛する人たち、あなたがたに勧めます。いわば旅人であり、仮住まいの身なのですから、魂に戦いを挑む肉の欲を避けなさい。12また、異教徒の間で立派に生活しなさい。そうすれば、彼らはあなたがたを悪人呼ばわりしてはいても、あなたがたの立派な行いをよく見て、訪れの日に神をあがめるようになります。13主のために、すべて人間の立てた制度に従いなさい。それが、統治者としての皇帝であろうと、14あるいは、悪を行う者を処罰し、善を行う者をほめるために、皇帝が派遣した総督であろうと、服従しなさい。15善を行って、愚かな者たちの無知な発言を封じることが、神の御心だからです。16自由な人として生活しなさい。しかし、その自由を、悪事を覆い隠す手だてとせず、神の僕として行動しなさい。17 すべての人を敬い、兄弟を愛し、神を畏れ、皇帝を敬いなさい。

 18召し使いたち、心からおそれ敬って主人に従いなさい。善良で寛大な主人にだけでなく、無慈悲な主人にもそうしなさい。19不当な苦しみを受けることになっても、神がそうお望みだとわきまえて苦痛を耐えるなら、それは御心に適うことなのです。20罪を犯して打ちたたかれ、それを耐え忍んでも、何の誉れになるでしょう。しかし、善を行って苦しみを受け、それを耐え忍ぶなら、これこそ神の御心に適うことです。21あなたがたが召されたのはこのためです。というのは、キリストもあなたがたのために苦しみを受け、その足跡に続くようにと、模範を残されたからです。
22「この方は、罪を犯したことがなく、
 その口には偽りがなかった。」
23ののしられてもののしり返さず、苦しめられても人を脅さず、正しくお裁きになる方にお任せになりました。24そして、十字架にかかって、自らその身にわたしたちの罪を担ってくださいました。わたしたちが、罪に対して死んで、義によって生きるようになるためです。そのお受けになった傷によって、あなたがたはいやされました。25あなたがたは羊のようにさまよっていましたが、今は、魂の牧者であり、監督者である方のところへ戻って来たのです。
ペトロの手紙一 2章11〜25節

1.ラリー・サンデー
  9月の第一日曜日。この日は、「振起日」と呼ばれる主の日です。心新たに振い起こされる日です。特別なときを過ごして日常生活に戻ろうとするときに、感覚が鈍っていたり、身体が重く感じられたりします。もう始まっているのに、なかなかスイッチが入らずボーっとしてしまうことがあります。そういう一人ひとりが、しかし、それぞれの場所からひとつの場所に集められます。学校であれば始業式を行います。幼稚園も始業礼拝をもって新学期を始めました。礼拝は、いつも新しいときの訪れなのです。「振起日」は、英語で言えば“Rally Sunday”です。“Rally”という言葉は、もともと再び(re)結びつく(ally)、盛り返すなどといった意味があります。わたしたちの信仰生活も同じことが言えます。わたしたちの人生において、ひとつの季節が過ぎて新しい季節が巡って来るように、わたしたちも古い人としてではなく、心新たに神のみ前に進み出るようにと招かれます。いま共に招かれて、ここに集められたわたしたちは、新しい者とされます。

  新しい一歩を踏み出すというときに、わたしたちは喜びや期待といったポジティブな感情を抱きます。同時に、しばしばネガティブな感情をも引き受けることになります。今までとは別の道に進むことには葛藤が伴います。馴れ親しんできたものとは別の新しい自分に気づく時に、違和感を覚えることもあるでしょう。その場所にいながら、自身がどこかよそ者のように感じるという経験を、皆さんはお持ちでないでしょうか。聖書は、その違和感について、わたしたちが「旅人」(aliens;外国人)であるゆえ、「仮住まいの身」(exiles;追放された人々)であるがゆえなのだと言います。聖書の中で外国人や寄留者と言われる人たちは、居住する都市において何の権利も持たない人たちでした。この地で何者でもない者が、しかし、なおその土地でいかに生きるのか。

  聖書はこう呼びかけています。「愛する人たち、あなたがたに勧めます。いわば旅人であり、仮住まいの身なのですから、魂に戦いを挑む肉の欲を避けなさい」(11節)。驚くことかもしれませんが、「主のために、すべて人間の立てた制度に従いなさい」(13節)と言います。「それが統治者としての皇帝であろうと、…皇帝が派遣した総督であろうと、服従しなさい」(13〜14節)。「すべて人間の立てた制度に従いなさい」とは、反発を覚えるような言葉です。国の定める法律や社会規範が、絶対に正しいものであるとは言えないと思います。法律も社会規範も、時代とともに変化する相対的なものです。「制度」と言われている言葉は、新約聖書の言語のギリシャ語で「クティシス」と言います。「所産」といった意味合いを持つ言葉です。人間に起因する、人間のつくり出したものという意味合いです。皇帝の支配も総督の権威も、すべて人間がつくった相対的なものであると言っているのです。

2.人間の容れもの
  人間がつくりだした現実の中に、わたしたちも身を置いています。聖書の時代よりはずっと進歩した世界に生きているように見えますし、人間は長い歴史の中で知恵が増したように思えます。戦前と戦後では、国の法も思想も180度変わりました。これまで学校で教えられてきたことが、正しくないということがあり得たのです。高度経済成長の前と後では、生活が激変しました。わたしたちは発展した社会を生きています。しかし、この成長したと思っている社会にひずみを見ることもあります。人間がつくり出すもので、完全なものはありえません。

  祈り会でも話題となったことですが、先週、原発の原子炉の放射性廃棄物の処理方針が明らかにされてニュースになりました。地震や火山の影響を受けにくい場所で地下70メートルより深く掘って、そこにコンクリートなどで覆った廃棄物を埋めて、10万年間立ち入ったり掘ったりできないようにするということらしいのです。10万年間、電力会社がこれを管理するのは現実的ではないとして、300年から400年は電力会社が、それ以上のところは国が管理責任を負うということのようでした。事故のあった原発ばかりでなく、他の原発の使用済み核燃料でも同じことです。世界最高水準の科学技術を用いて建造した施設であっても、人間が作ったものである以上どこかに欠けがあり、わたしたちはそれをどこかで思い知らされます。

  聖書は人間の立てた制度を称賛したりはしません。しかし、人間がこの地上で生きる上でつくり出す技術、ルール、さまざまの関わりを、聖書は軽んじてはいません。むしろ「すべて人間の立てた制度に従いなさい」と語るのです。大事な言葉があります。「主のために」という言葉です。やみくもに体制に「従いなさい」と言っているのではなく、「主のために」、つまり何が主のためであるのか祈りつつ、「従いなさい」と言うのです。良い制度であれば葛藤は少ないはずですが、良くない制度のもとにあるとき、悪い制度のもとにあるとき、悩みは深くなります。しかし、わたしたちが社会に対して、国家に対して信仰者として責任を果たしていくことができるのは、自分が住むコミュニティに参加していくときです。この社会に自ら参与していくときです。これを拒んで、福音のよろこびを分かち合うことは考えられません。

  理不尽な制度があります。政治の横暴があります。しかし、悪意に対して悪意で応戦するのでなく、むしろ従いなさいと聖書は教えます。ただ反抗的に振る舞うだけは何も得られないからです。「罪を犯して打ちたたかれ、それを耐え忍んでも、何の誉れになるでしょう」(20節)。何にもならない。不当な苦しみに直面するとき「耐え忍ぶなら、これこそ神の御心に適うことです」(20節)と言われます。わたしたちが「主のために」何ができるかを思うとき、人間の作った欠けのある容れものの中に、わたしたちを通して、神がみ心を注いでくださるのです。

3.キリストのもの
  主イエス・キリストは言われました。「あなたがたも聞いているとおり、『隣人を愛し、敵を憎め』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」(マタ5:43〜44)。そもそも、なぜ「隣人を愛し、敵を憎め」と言われるのでしょうか。もっとも効果的な、ムダのない、ストレスもない人間関係の作り方だからです。相手が自分を愛してくれる、重んじてくれる、そういう人は、時間、労力をかける価値があるということではないかと思います、コストをかければ、それだけの効果が得られるというのが相思相愛の関係かもしれません。「隣人を愛し、敵を憎め」とは、わかりやすいがゆえに利用されやすい言葉でもあります。

  これとは逆に、愛するのにあまりに多くのリスクがあり過ぎるという相手がいます。愛を、力を、時間を、いのちの価をささげただけムダになるかもしれない、コストパフォーマンスが悪い相手です。こういう状況下にあって、愛されてもいないのに、むしろ辛く当たられるのに、愛するというのは、何の得があるのか、と思います。損か、得かで言えば、明らかに損です。損をしなさい。損なことを甘受しなさい、というふうにも聞こえます。悪人呼ばわりされる(12節)、不当な扱いをする無慈悲な主人だとしても、「心からおそれ敬って…従いなさい」(18節)と聖書は語ります。どうしてわたしたちにそのようなことができるでしょうか?

  キリストは言われました。「自分を愛してくれる人を愛したところで、あなたがたにどんな報いがあろうか」(マタ5:46)。こう言われたばかりでなく、実際にそのように生きられました。「『この方は、罪を犯したことがなく、その口には偽りがなかった。』ののしられてもののしり返さず、苦しめられても人を脅さず、正しくお裁きになる方にお任せになりました」(22〜23節)。なぜ、そのようにする必要があったのでしょうか。「十字架にかかって、自らその身にわたしたちの罪を担って」(24節)くださるためにです。

  わたしたちは、キリストの十字架の犠牲によって贖われました。キリストは、自分を愛してもいない者のために、愛されるに価しないわたしたちのために、いのちの対価を支払って、罪の奴隷であったわたしたちを買い戻してくださったのです。キリスト者とは、他のだれのものでもなく、「キリストのもの」というアイデンティティを持つ者です。当時の教会には、奴隷の身分の者が一定数存在していたと言われています。奴隷とされた人たちには、その身体に家畜にするのと同じような焼印が施されました。この焼印が、その人がだれであるのか、どの主人の所有であるのかを示しました。しかし、キリスト者の奴隷は、キリストこそが真の主人であり、「魂の牧者」(25節)であると信じます。「キリストのもの」という唯一のアイデンティティを持っています。人間のつくり出す問題や困難に相対しながら、このただ中で、キリストの恵みを証していくことができるのです。


祈り


〒970-8036 いわき市平谷川瀬字仲山町25
Tel/Fax 0246-21-2145
          いわき きょうかい
日本キリスト教団 磐 城 教 会
牧師 上竹 裕子
更新:2016.9.9

Copyright 2011-2013 IWAKI KYOUKAI All Rights Reserved.


inserted by FC2 system