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聖霊降臨節第18主日 ≪キリストの住まい
礼拝説教抄録

日本キリスト教団磐城教会 2016年9月11日
 11ソロモンは主の神殿と王宮を完成し、この神殿と王宮について、行おうと考えていたすべての事を成し遂げた。12その夜、主はソロモンに現れ、こう仰せになった。
 「わたしはあなたの祈りを聞き届け、この所を選び、いけにえのささげられるわたしの神殿とした。13わたしが天を閉じ、雨が降らなくなるとき、あるいはわたしがいなごに大地を食い荒らすよう命じるとき、あるいはわたしの民に疫病を送り込むとき、14もしわたしの名をもって呼ばれているわたしの民が、ひざまずいて祈り、わたしの顔を求め、悪の道を捨てて立ち帰るなら、わたしは天から耳を傾け、罪を赦し、彼らの大地をいやす。15今後この所でささげられる祈りに、わたしの目を向け、耳を傾ける。16今後、わたしはこの神殿を選んで聖別し、そこにわたしの名をいつまでもとどめる。わたしは絶えずこれに目を向け、心を寄せる。
歴代誌下 7章11〜16節
 14こういうわけで、わたしは御父の前にひざまずいて祈ります。15御父から、天と地にあるすべての家族がその名を与えられています。16どうか、御父が、その豊かな栄光に従い、その霊により、力をもってあなたがたの内なる人を強めて、17信仰によってあなたがたの心の内にキリストを住まわせ、あなたがたを愛に根ざし、愛にしっかりと立つ者としてくださるように。18また、あなたがたがすべての聖なる者たちと共に、キリストの愛の広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解し、19人の知識をはるかに超えるこの愛を知るようになり、そしてついには、神の満ちあふれる豊かさのすべてにあずかり、それによって満たされるように。20わたしたちの内に働く御力によって、わたしたちが求めたり、思ったりすることすべてを、はるかに超えてかなえることのおできになる方に、21教会により、また、キリスト・イエスによって、栄光が世々限りなくありますように、アーメン。
エフェソの信徒への手紙 3章14〜21節

1.祈り
  今日で、アメリカの同時多発テロから、15年が過ぎました。日本時間の夜に、この映像をリアルタイムで見ていた人たちの記憶は。「国際テロ組織」によるテロが、いつどこでも起こりうるという恐怖をハッキリと植えつけた最初の事件だったと思います。当時、わたしは高校生で、ちょうど文化祭の時期でした。わたしの通っていた高校の文化祭は、外向けの公開年は3年に一度しかなく、2001年は非公開の年に当たっていました。非公開の年は、クラスごとにテーマを決めて演劇等の台本を作って表現していく文化祭で、近くの文化センターを会場に全校生徒が集まっていました。

  「9.11」の起こった翌日が、文化祭の中日でした。その日も会場に全校生徒が集まって来ていましたが、そこにいるだれもが何か大変なことが起こってしまったと感じていたと思います。会場の空気感はいまでも忘れられません。翌日の朝、集まっていたわたしたちの前で、文化祭担当の教師が、声を絞り出すようにして何かを語っていました。もし、この会場で同じことが起こったとしたら、といったことを話していたと思いますが、高校生のわたしにはにわかに想像しがたいことでした。先生が黙祷を呼びかけ、しばらく沈黙のときを持ちました。けれども、犠牲者のために、何をどう祈ればよいのか、という感覚だったように思います。これから世界で何が起こっていくのだろうか、と感じました。

  ニューヨークのマンハッタンに家族が住んでいるというアメリカ人の知人夫妻が、「9.11」のテロ直後に出産し、生まれてきた赤ちゃんに「友」と命名しました。「わたしはあなたがたを友と呼ぶ」(ヨハ15:15)というキリストの言葉からつけられた名前であるそうです。それを聞いたときに、祈りがどういうものなのか、どう祈ればよいのかが少しわかった気がしました。深い悲しみが広がり、全土がテロ組織への憎悪を強めていく中で、報復の機運が高まりました。けれどもこの小さな夫妻の祈りは明瞭でした。憎しみが憎しみを呼んでいく現実の中で、憎しみの子を生まない、という祈りです。このとき新しく生まれた男の子は、「友」という自分の名前について何度も聞かされてきたでしょう。15才を迎えるいま、どのような男の子に成長しただろうかと思い巡らせています。

  神は、わたしたちの間にご自分の平和を強いることではなく、わたしたち自身の祈りを求めていらっしゃいます。「もしわたしの名をもって呼ばれているわたしの民が、ひざまずいて祈り、わたしの顔を求め、悪の道を捨てて立ち帰るなら、わたしは天から耳を傾け、罪を赦し、彼らの大地をいやす」(歴下7:14)。神がわたしたちに、本当に求めていらっしゃるのは、祈りです。わたしたちが日常生活の中で、神の求めということに、心を留めるときがどれほどあるでしょうか。もし少しでも、神のみ心に心を向けるならば、わたしたちには、ひざまずく時間が必要なのではないでしょうか。

2.祈り―ひざまづいて
  教会でも、祈りに苦手意識をもっている方があります。「祈りに苦手意識」と言い方は適切ではないかもしれませんが、祈りをお願いしたり、祈りを呼びかけたりすると、断られないまでも一歩引かれてしまうことがあると感じます。わたしの牧師としての課題は、やはり自分自身が祈っていればということでなく、ここに集う皆さん一人ひとりが祈りへと解放されていくことです。祈りは不自由だと感じている方が少なからずあるからです。なぜ、自由であるはずの祈りが、不自由なものに感じるのでしょうか。

  おそらく、ひとつは、教会の祈りは、自分の欲求や願望を申し述べることではない、という感覚があるからではないでしょうか。好き勝手祈っていいわけではないとなると、何か難しいことのように思えるのかもしれません。15年前、マンハッタンで「9.11」テロが起こったときに、深い悲しみと嘆きが襲いました。怒り、憎しみという感情が引き起こされました。その思いを自由に祈ってはいけないのかと言われれば、そうではありません。祈ってよいのです。詩編には、負の感情のあふれた祈りがいくつもでてきます。祈ってよいのです。しかし、それすらもわたしたちには難しいことかもしれません。素直になることは簡単ではないからです。祈ることが不自由と感じるもうひとつの理由は、共に祈るとき、神の前に立つというよりも、人前で祈るという思いが先立ってしまうからです。

  キリストの使徒パウロは、この手紙を祈りの中で書き留めています。「わたしは御父の前にひざまずいて祈ります」(14節)。わたしたちには跪いて祈るという習慣はありませんが、ある教派の人たちはこの姿勢を大切にしています。ある人が留学先のドイツの教会で、ゴルヴィツァー教授という有名な神学者が説教するというので、その礼拝に出かけました。ゴルヴィツァーは、当時急進的な神学で知れていた人です。教会に到着したのが早すぎたので、一番乗りでプルピットのすぐ下の席に座ったのだそうです。気づいたらすでに聖壇の前にひとりいて、その人は白髪交じりで小太りな人がガウンを着てうずくまるようにひざまずいて、祈っていたと言います。その祈りの姿に心を打たれた留学生は、礼拝が始まって、説教が始まったとき、その人があのゴルヴィツァー教授だと知りました。

  当時、両手を天に向けて祈るという所作が一般的でしたが、一方でひざまずいて祈ることがありました。祈りの姿勢について話し始めると、何かパフォーマンスのように思えて抵抗を感じる方があるかもしれませんが、わたしたちはそのような祈りの型によって、祈りの内実を学ぶという面があります。祈りのスタイルは自由です。でも、パウロがいま、教会の人たちに語りかけながら、ひざまずいて神の前に出ては祈っている姿を見るとき、パウロの言葉の真の力は、ここにあるのだと思わないでいられません。わたしたちの足りないところを見る思い

3.祈り―キリストの住まい
  パウロは神に向かい、教会のために、わたしたちのために、このように祈っています。神が、信仰によって「あなたがたの内なる人を強めて」(16節)、「あなたがたの心の内にキリストを住まわせ」(17節)てくださるように。キリストは、一回限りの訪問者ではありません。祈るとき、キリストがそこに住んでくださいます。わたしたちが祈ることをやめてしまうならば、キリストが住まわれることにはならないのです。教会は祈りの中で、真にキリストが住まう「キリストの体」(エフェ4:12)となっていきます。教会が祈らないならば、キリストの体は病み、キリスト不在のただのサークルとなってしまうのではないですか。

  この章の最後で、パウロは神を讃美するのですが、一見、不思議なことが語られているように思います。「わたしたちの内に働く御力によって、わたしたちが求めたり、思ったりすることすべてを、はるかに超えてかなえることのおできになる方」(20節)と、パウロは神のみ力を証しします。わたしたちの内に神のみ力が働くとき、わたしたちは自分自身の願い、思いを超越していくのだと語るのです。わたしたちが正しいと思う祈りがあります。こうありたい、こうなってほしい、強い願い、求めがあります。自分の思いを超えていくことは、自身でできることではありません。けれども、なんと多くの人が、自分で自分の思いを超えていこうと思ってもがいていることでしょうか。

  自分の思いを消さなければならないとか、自らの求めを捨てなければならないとか、そういった己に打ち勝つ精神のことを言っているのではなくて、わたしたち自身もまだ十分に知っていない、もっと深いところにある求めがあると言っているのです。祈りは、自分自身を変えるというものではありません。そうであるならば、わたしたちの多くは祈ることができなくなってしまいます。そうではなくて、祈りにおいて、わたしたちは方向を変えるのです。「御父の前に」向かうのです。歩く方向が変わると、目的地が変わります。目的地へ向かう道が変わります。ただ自分の目で見つめていた場所に向かう道では見えてこなかった別の目的地を見るようになります。

  順調にしているときには、わたしたちは自分がどう進んでいけばよいのか、それほど悩むことはないのだろうと思います。自分でよい道が見えているように感じます。でも、よい道が何であるのかが、見えなくなるときがあります。わたしたちは自分の人生でさえ、いまがどういうときなのか、わからなくなります。何を目指せばよいのか。何に希望を置いて歩んでいけばよいのか。わたしたちは目先の欲求を満たすように生きるのでしょうか。聖書は、わたしたちの求めをはるかに凌駕する求めがわたしたちの内にあり、これを満たす唯一の恵みがあると語ります。わたしたちの内に、絶えることなく臨在し続けてくださるこの方が、わたしたちを、この恵みに生きる道へと招くのです。


祈り


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日本キリスト教団 磐 城 教 会
牧師 上竹 裕子
更新:2016.11.13

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