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聖霊降臨節第19主日 ≪神の富と知恵
礼拝説教抄録

日本キリスト教団磐城教会 2016年9月18日
13いかに幸いなことか
 知恵に到達した人、英知を獲得した人は。
14知恵によって得るものは
 銀によって得るものにまさり
 彼女によって収穫するものは金にまさる。
15真珠よりも貴く
 どのような財宝も比べることはできない。
16右の手には長寿を
 左の手には富と名誉を持っている。
17彼女の道は喜ばしく
 平和のうちにたどって行くことができる。
18彼女をとらえる人には、命の木となり
 保つ人は幸いを得る。
19主の知恵によって地の基は据えられ
 主の英知によって天は設けられた。
20主の知識によって深淵は分かたれ
 雲は滴って露を置く。
箴言 3章13〜20節
 33ああ、神の富と知恵と知識のなんと深いことか。だれが、神の定めを究め尽くし、神の道を理解し尽くせよう。
34「いったいだれが主の心を知っていたであろうか。
 だれが主の相談相手であっただろうか。
35だれがまず主に与えて、
 その報いを受けるであろうか。」
36すべてのものは、神から出て、神によって保たれ、神に向かっているのです。栄光が神に永遠にありますように、アーメン。
ローマの信徒への手紙 11章33〜36節

1.人間の愚かさは驚きに価しない
  いわきの教会に遣わされてから、ドライブする時間がとても長くなりました。それまで自分でハンドルを握ることはほとんどありませんでしたが、自分で運転するようになって、最初に気づいたことは、だれもわたしを目的地に連れて行ってはくれないということでした。そんなことは当然と思われるかもしれませんが、電車やバスであれば、どこかに行くにも本を読んだり、何かを書いたりすることができます。飛行機など長時間の移動であれば眠ります。それで気づけば、目的地に到着しています。同じ道を行くときにも、自分でドライブするという経験はまったく別ものです。自分で道路と所要時間を調べて、勘を働かせて、運転しなければなりません。

  実際のところは、わたしはほとんどナビにお世話になっています。以前、教団の委員会のフィールドワークで、だれも土地勘のない町を、レンタカーを使って移動することがありました。古いナビだったのか、新しい道路を認識しておらず、遠回りなのに何度も高速に乗せようと案内します。車を運転される方は、こういう経験はよくあることだと思います。ナビは、わたしたちが勝手に裏道を行こうとすると、何度も何度も本来の道に引き戻そうとして、しつこく案内します。これを見ていたある牧師が、「なんだかしつこくて牧師みたいだね」と言い出しました。「我々が違う道を行こうとするのを放っておけないみたいだ」と。

  ある人は、このナビのしつこさが嫌になって、電源を切ってしまいます。でも、ドライバーであることには変わらないので、何かを頼りに目的地へと進まなければなりません。ドライバーと言う言葉は、ゴルフの道具にも使われています。あるいは、ねじを回すための工具です。つまり、確実な標的があって、それに目がけてボールを、ねじを、打ち込むのです。そういった意味で、わたしたちはだれもが、自らの人生のドライバーです。居眠りしながらではなく、自ら意識してハンドルを握り、目的地はどこか、どの道を通って来て、いまどこを走っているのか、知らなければなりません。

  そうは言っても、いつも緊張して標識や道順ばかりを気にしているわけではなく、道なりに長い道のりを行くとき、いろいろなことを思い巡らせます。昨日、飼い犬かりすの手術のため、つくばの病院までドライブしました。ドライブしていると、いろいろなことに気づかされます。夏に青々としていた田んぼが、もう収穫の時を迎えています。今年の夏は、わたし自身にとって、時が止まったような大きな試練がありました。けれども、ドライブしながら窓の外を見れば、季節が移り変わっていることに気づかされます。わたしたちは、何か大きな失敗をおかしたり、大きな悲しみが襲ったりすると、そのことにまったく時間を奪われてしまいます。自分の愚かさや弱さに打ちひしがれます。しかし、ふと窓の外を見る時、神がお造りになった世界、時間を生きていることにハッとさせられます。

2.驚くべき神の知恵
  今日聞いていますローマの信徒への手紙は、キリストの使徒パウロの神学の集大成とも言える書簡です。とりわけ9章から11章にかけては、パウロが同胞イスラエルの躓きについて記している箇所です。イスラエルは、神に選ばれた約束の民でありながら、もっとも大きな過ちを犯しました。この地に来られた神のみ子イエス・キリストを拒み、十字架で処刑しました。イスラエルは、依り頼むべき岩に依り頼まず、躓いたのです。

  パウロという人も、イスラエルの民に属しています。かつては律法のエリート中のエリートの教育を受けた熱心なファリサイ派でした。キリスト教会の迫害者でした。そのパウロを、復活のキリストが呼ばれました。「サウル、サウル、なぜ、わたしを迫害するのか」(使9:4)。パウロは、復活のキリストに出会って回心し、異邦人伝道の働きに召し出されます。新約聖書の多くの部分は、パウロが書いた書簡です。パウロの宣教旅行の軌跡を見ても、これ以上ない働きをした伝道者と言えます。伝道者としては成功者と言えます。しかし、パウロは異邦人の中で福音が前進していくのを目の当たりにしながらも、自分の同胞が常に失われた状態であることに、「深い悲しみ」、「絶え間ない痛み」(ロマ9:2)を覚えていると告白し始めるのです。この手紙の9章から読み進めてまいりますと、パウロがいかに同胞のことに心痛み、苦しんでいたかが伝わってきます。

  パウロはたしかに救われ、回心しました。パウロは新しい人となりました。キリスト者となり、これまでとまったく違う新しい使命に生き始めました。しかし、パウロの心の深いところでは「なぜ」という思いが消えなかったのです。なぜイスラエルは、不従順の民となってしまったのか。なぜイスラエルは、解決の見えない袋小路に入り込んでしまったのだろうか。自分の切り出されてきた元の岩が救われていないことは、自分自身の一部が囚われているようであったかもしれないと思います。

  わたしたちは、自分が自分であることを単独で認識することはできません。自分を何と言い表すでしょうか。母の子であり、父の子です。父に捨てられたとしても、母から非情な仕打ちを受けたとしても、これまで歩んできた人生のプロットが変わることはありません。家族の物語があり、民族の歴史があります。「わたしはわたし」他の誰でもないと言えるのは、自分を取り巻く歴史の文脈の中に、他者との関係の中に自分を置くときです。重要なことは、だれとの関係の中に自らを置いているかです。現在、直面している状況が困難であるとしても、自分には理解不能であったとしても、神との関係の中で、わたしたちはその状況を見ることができるのです。パウロは、変えることのできない民族の歴史の現実の中に身を置きながら、すべてのものの造り主であり、歴史を導かれる主の現実を見ることができました。この方のみ心の「広さ、長さ、高さ、深さ」(エフェ3:18)を見出したのです

3.神の救う意志が勝る
  パウロはひとつの答えに到達します。「神はすべての人を不従順の状態に閉じ込められましたが、それはすべての人を憐れむためだったのです」(ロマ8:32)。長く、苦い問いから導き出されたこの答えです。この言葉を、ある人は精確にこう読みました。「人間の不従順というがらくたから、神はご自分の憐れみという道具を形作られた」(アクティマイア)。人間の不従順に対する神の答えは、憐れみであるのです。パウロは、感嘆の声を上げます。「ああ、神の富と知恵と知識のなんと深いことか。だれが、神の定めを究め尽くし、神の道を理解し尽くせよう」(33節)。

  「ああ…なんと深いことか」(33節)。「ああ」。これは言葉というよりは音と言った方がよい。ギリシャ語では「オー」(オメガの一文字)です。もともとは「アー」ではなく「オー」です。「オー」は新約聖書の中で、17回は出てくるうち、ほとんどが呼びかけの前に置かれる間投詞だそうですが、言語事典によればこの33節だけが単なる「叫び」として使われているそうです。「ああ…なんて深いんだ!」という感嘆の声は、ここまで幾重にも、幾重にも展開されてきたパウロの議論から見ますと、いきなり単純すぎるようにも聞こえます。しかしこの叫びは、神の計り知れないご計画に対するパウロの驚嘆なのです。パウロの確信はこれです。神は救う意志をお持ちである、ということ。「ああ、そうだ!」、「ああ、わかった!」、「アーメン!」と、パウロは叫んでいるのです。皆さんは、礼拝生活の中に驚きがありますか。特に、信仰生活に入って長い方は、たくさんの知識が蓄えられて、何も新しいこともないように思えるかもしれません。しかし、信仰が成熟する中で、神のご計画を見えなかった眺めが見えてきて、感嘆することがあります。わたしたちが垣間見る神の国は、とても美しいものだからです。

  感嘆に価するのは、人間の愚かさではなく、「神の富と知恵と知識」です。旧約聖書の箴言には、知恵者について語られています。「いかに幸いなことか 知恵に到達した人、英知を獲得した人は」(3:13)。さらに箴言には、知恵者と対照された愚者がユーモアを携えながらたくさん登場します。箴言の語る愚者は、知性に関する不足ではなく、誤った自己への信頼、自己中心的な態度のことを指します。「主を畏れることは知恵の初め」(箴1:7)と語りかけます。神を畏れ、自らではなく絶対的他者である神に依り頼むことができる人が、知恵ある者と呼ばれているのです。自らの富、自らの知恵、自らの知識は、限りあるものです。しかし、神の富、神の知恵、神の知識は、時空を超えた永遠の深みを持ちます。「すべてのものは、神から出て、神によって保たれ、神に向かっているのです」(36節)と聖書は語ります。わたしたちは、この方と共にドライブします。どんなサプライズがあるのかわかりませんが、どの現実よりも確かなこの方と共に行くのです。


祈り


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牧師 上竹 裕子
更新:2016.11.13

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