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聖霊降臨節第20主日 ≪永遠の住み家
礼拝説教抄録

日本キリスト教団磐城教会 2016年9月25日
1 その時、大天使長ミカエルが立つ。
 彼はお前の民の子らを守護する。
 その時まで、苦難が続く
 国が始まって以来、かつてなかったほどの苦難が。
 しかし、その時には救われるであろう 
 お前の民、あの書に記された人々は。
2 多くの者が地の塵の中の眠りから目覚める。
 ある者は永遠の生命に入り 
 ある者は永久に続く恥と憎悪の的となる。
3 目覚めた人々は大空の光のように輝き
 多くの者の救いとなった人々は
   とこしえに星と輝く。
 4 ダニエルよ、終わりの時が来るまで、お前はこれらのことを秘め、この書を封じておきなさい。多くの者が動揺するであろう。そして、知識は増す。」
ダニエル書 12章1〜4節
 1わたしたちの地上の住みかである幕屋が滅びても、神によって建物が備えられていることを、わたしたちは知っています。人の手で造られたものではない天にある永遠の住みかです。2わたしたちは、天から与えられる住みかを上に着たいと切に願って、この地上の幕屋にあって苦しみもだえています。3それを脱いでも、わたしたちは裸のままではおりません。4この幕屋に住むわたしたちは重荷を負ってうめいておりますが、それは、地上の住みかを脱ぎ捨てたいからではありません。死ぬはずのものが命に飲み込まれてしまうために、天から与えられる住みかを上に着たいからです。5わたしたちを、このようになるのにふさわしい者としてくださったのは、神です。神は、その保証として“霊”を与えてくださったのです。
 6それで、わたしたちはいつも心強いのですが、体を住みかとしているかぎり、主から離れていることも知っています。7目に見えるものによらず、信仰によって歩んでいるからです。8わたしたちは、心強い。そして、体を離れて、主のもとに住むことをむしろ望んでいます。9だから、体を住みかとしていても、体を離れているにしても、ひたすら主に喜ばれる者でありたい。10なぜなら、わたしたちは皆、キリストの裁きの座の前に立ち、善であれ悪であれ、めいめい体を住みかとしていたときに行ったことに応じて、報いを受けねばならないからです。
コリントの信徒への手紙二 5章1〜10節

1.家というギフト
  先週、わたしは結婚しました。結婚のための準備の時間は、実際にはたくさんあったはずなのですが、お互い体調を崩してしまい、また飼い犬のかりすまでも手術の必要な大けがをしてしまい、準備が頓挫しました。準備がまったく不十分な中で、しかし時間は待ってはくれず、前にも後ろにも進めないまま結婚式の日が近づいてきました。式を終えてわかったことは、結婚というのは自分たちでするものではないのだということでした。とても情けないことですが、直前になってバタバタと準備をしました。周囲の方たちに助けられて、結婚式をしていただいたという感覚でした。結果として、すべて自分たちの力で準備したものでなかったからこそ、よい結婚式になったのだとも思います。とても感謝すべきことでした。

  もちろん、自分たちで計画して、自分たちで一から十まで考えて、十全な準備をして結婚式に臨むカップルもあると思います。少なくともわたしたちも、最初はそのつもりでしたが、紆余曲折あって、それができなくなってしまいました。牧師として何度か結婚式の司式をしてきましたが、思ってもいなかった苦い経験となりました。このことが、これからのわたしたちの結婚生活にどのように影響していくのか、まだ始まったばかりではわからないことですが、自らの記憶に刻み、またぜひ皆さんにもお話ししておきたいと思いました。

  結婚式に来てくれたハンガリー人の友人が、おもしろいことを教えてくれました。昔、ハンガリーの村社会では、結婚する若い夫婦のために家を建てる伝統があったのだよ、と。彼女は、結婚に必要なことはふたりが完璧な準備をすることではなく、外からの祝福を受けることなのだ、それでよいのだ、と言ってわたしを励ましてくれました。わたしは無意識にも、どこか、結婚について自分たちで新築の家を建てることだと思っていたところがあったのだろうと思います。結婚ということでなくても、人生とは、この世界で生きていくということは、そのようなものだと思っていたのかもしれません。だれもこのわたしのために家などつくってはくれないでしょう。だれかが家をプレゼントしてくれる?! そんなことは宝くじが当たるようなことで、夢のまた夢です。でも、ハンガリーの古き良き時代の村社会の伝統について、わたしたちは想像することができます。自力で建てた家ではなく、厚意によって与えられた家に住む人は、いつでも食卓にお客を迎え入れる準備があったのではないでしょうか。このような贈りものの家での生活を想像するのは楽しいことです。

  ところで皆さん、聞き逃してはならないことですが、聖書は、わたしたちに贈りものの家が準備されていると語っています。それは「人の手で造られたものではない天にある永遠の住みかです」(1節)。「天から与えられる住みか」(2節)です。

2.永遠の住みかへの備え
  今日、ご一緒に聞いています聖書、コリントの信徒への手紙の著者であるキリストの使徒パウロは、わたしたちの地上の住まいを指して、「幕屋」、つまりテントと呼んでいます。今、わたしたちが住んでいるのは、一時的な、仮の住まいなのです。これとはまったく別の「建物」が与えられるのだと、パウロは語ります。神がお与えになる「建物」は、仮住まいのテントではない、永続する、確かな住まいです。わたしたちは、しかし、この家に関して想像力が乏しいので、どうにかして今あるテントのグレードを上げようとしてしまうのです。グレードアップしたとしても掘っ建て小屋か何かにしかならないのに、です。でもそうする必要はまったくなくて、肝心なことは、神がお与えになる住まいの鍵を、わたしたちがこの手にしっかりと受け取るか否かです。

  わたしたちの地上でのいのちは、いわば氷山の一角のようなものです。聖書は、今わたしたちが見ている住まいとは比較にならない、神のお与えになる「永遠の住みか」があると語ります。氷山の、水面下に隠されている部分のようなものです。あるいは、こうも言うことができます。わたしたちは胎児であったときに、この地上の世界を知ることはありませんでした。母親の顔も父親の顔も知らないまま、自分がどのような家に生まれて、何になるのかも知らないまま、この世に生を受けました。わたしたちは、自らのいのちについて最初から何も知ってはいなかったのです。しかし、新しい家はきちんと準備されていて、その家に生まれました。母の胎にあったときには、想像もしなかった世界が広がっていたのです。同じように、わたしたちは、来たるべき「永遠の住みか」について、目で見て、手で触れて確認することはできません。その家に新しく生まれるまでは、はっきりと知ることはありません。わたしたちは、この地上ですべてのいのちを生きているのではないのです。氷山の一角の時間を、それゆえに貴い時間を生きているのです。

  この世に生を受け、ほんの少しの時間を生き、亡くなる子どもがいます。大人にならずに天に召された子どもの死は、家族に、また社会に、深い悲しみをもたらします。重度の障害を得て、生涯を通して自らの言葉で話すことのできない子どもがいます。神を信じる信仰を、その口で言い表すことができない子どもは救われるために生まれて来たと言えるのか。このような問いは、容易に解くことのできない問題として、絶えずわたしたちの周りに転がっています。しかし、ひとつ確かなことは、わたしたちのいのちは、目に見える地上での営みがすべてではないということです。わたしたちは「永遠の住みか」に向かって今を生きているのです。わたしたちは、この住まいを今、礼拝において垣間見ることを許されています。この場所で、わたしたちは神の永遠を垣間見、神の永遠に触れているのです。これは、わたしたちが来たるべきときに新しく産声を上げるための準備でもあります。

3.死はいのちにのみ込まれる
  わたしたちは、よもやま話のためにここに集うのではありません。牧師のよいお話しを聞くために集うのではありません。そうであるならとうに解散しているでしょう。そうではなく、神の言葉を聞き、永遠に触れるのです。パウロは、しかし、続けてこのようにも言っています。「この幕屋に住むわたしたちは重荷を負ってうめいておりますが、それは地上の住みかを脱ぎ捨てたいからではありません」(4節)と。

  わたしたちが神を信じることで、何かミラクルがわたしたちの身に起こるかと言えば、多くはそうではありません。この地上の住まい、罪の重荷を負う肉体をわたしたちは身にまとったままなのです。パウロはこれを早く脱ぎ捨てよう、とは言いません。脱ぎ捨てなくてよいのです。仮設テントを完全に取り壊してからでないと、「永遠の住みか」が建てられないとは、聖書は言わないのです。わたしたちは今、テントを身にまといながらも、「永遠の住みか」を身にまとうことができる、と言います。わたしたちが自ら身にまとうのではなく、神がわたしたちにこの住みかを着させてくださるのです。「わたしたちをこのようになるのにふさわしいものとしてくださるのは、神です」(5節)と、聖書は語ります。

  この救いは、具体的な出来事として、わたしたちの間に迫りました。「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた」(ヨハ1:14)というクリスマスの福音が、わたしたちに現されました。神が人となり、肉体を着てこの地上に来られた、主イエス・キリストの受肉の出来事です。主イエスは、肉体をもってマリアとヨセフのもとにお生まれになりました。弟子たちや多くの人たちとの出会いを繰り返されながら、十字架に向かわれます。わたしたちが神のものとなるために、主イエスは、罪の衣である肉体を取って、その身にすべての苦しみを引き受けてくださいました。主イエスによって、わたしたちは罪の衣の上に、いのちの衣をまとう者とされたのです。主のいのちの衣は、わたしたちの死すべき衣とは比べることのできない力をもって、わたしたちを覆います。この衣をわたしたちが着るとき、「死ぬはずのものがいのちに飲み込まれ」(4節)てしまうのです。

  わたしたちは、この世に生きる悲しみ、苦しみ、悩みを負っています。苦しくなると刹那主義的に生きようとする弱い者です。しかし、その苦しみ、悩みを、主御自らが十字架として負ってくださいました。わたしたちは死すべき人を着ながらも、永遠のいのちの衣を与えられています。だから、「わたしたちは心強い」(6、8節)のです。パウロはこの希望について、こう語っています。「体を住みかとしていても、体を離れているにしても」、すなわち、「生きるにも死ぬにも」(フィリ1:20)、「ひたすら主に喜ばれる者でありたい」(9節)。主に召されるそのときまで、わたしたちはこの地上のいのちの歩みを重ねていきます。この歩みは、天の「永遠の住みか」の憩いに入るための希望に満ちた備えであるのです。


祈り


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          いわき きょうかい
日本キリスト教団 磐 城 教 会
牧師 上竹 裕子
更新:2016.11.13

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