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世界聖餐日・世界宣教の日 ≪キリストにある生
礼拝説教抄録

日本キリスト教団磐城教会 2016年10月2日
1 ヨブは主に答えて言った。

2 あなたは全能であり
 御旨の成就を妨げることはできないと悟りました。
3 「これは何者か。知識もないのに
 神の経綸を隠そうとするとは。」
 そのとおりです。
 わたしには理解できず、わたしの知識を超えた
 驚くべき御業をあげつらっておりました。
4 「聞け、わたしが話す。
 お前に尋ねる、わたしに答えてみよ。」
5 あなたのことを、耳にしてはおりました。
 しかし今、この目であなたを仰ぎ見ます。
6 それゆえ、わたしは塵と灰の上に伏し
 自分を退け、悔い改めます。
ヨブ記 42章1〜6節
 12兄弟たち、わたしの身に起こったことが、かえって福音の前進に役立ったと知ってほしい。13つまり、わたしが監禁されているのはキリストのためであると、兵営全体、その他のすべての人々に知れ渡り、14主に結ばれた兄弟たちの中で多くの者が、わたしの捕らわれているのを見て確信を得、恐れることなくますます勇敢に、御言葉を語るようになったのです。
 15キリストを宣べ伝えるのに、ねたみと争いの念にかられてする者もいれば、善意でする者もいます。16一方は、わたしが福音を弁明するために捕らわれているのを知って、愛の動機からそうするのですが、17他方は、自分の利益を求めて、獄中のわたしをいっそう苦しめようという不純な動機からキリストを告げ知らせているのです。18だが、それがなんであろう。口実であれ、真実であれ、とにかく、キリストが告げ知らされているのですから、わたしはそれを喜んでいます。これからも喜びます。19というのは、あなたがたの祈りと、イエス・キリストの霊の助けとによって、このことがわたしの救いになると知っているからです。20そして、どんなことにも恥をかかず、これまでのように今も、生きるにも死ぬにも、わたしの身によってキリストが公然とあがめられるようにと切に願い、希望しています。21わたしにとって、生きるとはキリストであり、死ぬことは利益なのです。22けれども、肉において生き続ければ、実り多い働きができ、どちらを選ぶべきか、わたしには分かりません。23この二つのことの間で、板挟みの状態です。一方では、この世を去って、キリストと共にいたいと熱望しており、この方がはるかに望ましい。24だが他方では、肉にとどまる方が、あなたがたのためにもっと必要です。25こう確信していますから、あなたがたの信仰を深めて喜びをもたらすように、いつもあなたがた一同と共にいることになるでしょう。26そうなれば、わたしが再びあなたがたのもとに姿を見せるとき、キリスト・イエスに結ばれているというあなたがたの誇りは、わたしゆえに増し加わることになります。27ひたすらキリストの福音にふさわしい生活を送りなさい。そうすれば、そちらに行ってあなたがたに会うにしても、離れているにしても、わたしは次のことを聞けるでしょう。あなたがたは一つの霊によってしっかり立ち、心を合わせて福音の信仰のために共に戦っており、28どんなことがあっても、反対者たちに脅されてたじろぐことはないのだと。このことは、反対者たちに、彼ら自身の滅びとあなたがたの救いを示すものです。これは神によることです。29つまり、あなたがたには、キリストを信じることだけでなく、キリストのために苦しむことも、恵みとして与えられているのです。30あなたがたは、わたしの戦いをかつて見、今またそれについて聞いています。その同じ戦いをあなたがたは戦っているのです。
フィリピの信徒への手紙 1章12〜30節

1.福音の前進
  普通に聖書を手にとってこの手紙を読み始めた人は、冒頭からこの著者は少し異常なのではないかと感じるのではないでしょうか。少なくとも状況は普通ではありません。手紙を記した伝道者パウロは、迫害によって投獄されています。「獄中書簡」とも呼ばれる手紙です。パウロ投獄のニュースは、教会の人たちをひどく悲しませ、恐れを抱かせるものであったはずです。でも、パウロは、自身の健康や裁判の見通しなどについては語らず、このように語り始めます。「兄弟たち、わたしの身に起こったことが、かえって福音の前進に役立ったと知ってほしい」(12節)と。

  「福音の前進」が、どういうことかといえば、パウロが投獄されたことで、彼が「監禁されているのはキリストのためである」(13節)ということが知れ渡ったのだと言います。さらに、パウロの健闘を見た仲間たちの多くが「ますます勇敢に、御言葉を語るようになった」(14節)と言います。パウロの投獄を知って多くの者たちが怖気づいた、という方が普通ではないでしょうか。厳しさを増す迫害の状況下で伝道することはリスクの大きなことです。しかし、投獄を知った多くの仲間たちは、それを負担に思うどころか、「ますます勇敢に、御言葉を語るようになった」と言います。キリストのために監禁されていることが伝道になり、パウロの苦しみが「福音の前進」を鼓舞したとは、理屈では説明の難しいことです。

  パウロは、さらにもうひとつ不可解な「福音の前進」を記しています。パウロの人気に嫉妬心を抱いていた別の党派の伝道者たちが、パウロが投獄されたことをチャンスと捉えて、ここぞとばかりに伝道しているということです。「ねたみと争いの念にかられて」(15節)、「自分の利益を求めて…不純な動機から」(17節)活動する人たちがいました。これを知ったパウロはどう思ったでしょうか。パウロは語ります。「口実であれ、真実であれ、とにかく、キリストが告げ知らされているのですから、わたしはそれを喜んでいます」(18節)と。通常の考えからすると正当なやり方ではなくても、どういう方法であれ、福音が前進していると言います。パウロ自身も思ってもいなかったことです。パウロという人の伝道者としての素質ということを超えて、思いもよらない仕方で、福音自らが前進していることを、パウロは何よりも「知ってほしい」こととして手紙の冒頭に書き留めるのです。

  パウロは、福音自らが前進していくさまを見て、ただ喜びを伝えています。「わたしはそれを喜んでいます。これからも喜びます」(18節)。この手紙は、「獄中書簡」という名を持ちながら、別名、「喜びの手紙」とも呼ばれています。投獄と喜び、この相反するふたつのことが記されており、異様な感じを受けるのもこのためです。教会が厳しい状況下にありながら、「信仰を深めて喜びをもたらすよう」(25節)願って、パウロは記しているのです。

2.喜びの源泉
  パウロの「喜び」の源泉は、目に見える状況の中にではなく、自身の深いところにあります。パウロは語ります。「わたしにとって、生きるとはキリストであり、死ぬことは利益なのです」(21節)と。この言葉は、パウロの確かな覚悟を表すものです。苦しみの現実から目を逸らして、何とかなるさと楽観して喜びのポーズをとろうというのではありません。この場所で死刑になるかもしれない、パウロはだれよりも自身に迫っている死を見つめています。それゆえに、生きることを見つめています。「わたしにとって、生きるとはキリスト」だと語りました。信仰を求める多くの人は考えます。キリストを信じて生きることにどんなメリットがあるのか、と。しかし、パウロは、そのように考えてはいません。キリストは、よりよく生きるための手段ではないからです。信ずる者にとって、生きることそのものがキリストとなるのです。「生きるにも、死ぬにも」(20節)、わたしたちはキリストのものです。

  囚人とされているこの人を、だれも完全につないでおくことはできません。キリストに捕らわれているからです。パウロは自身の死を思いながら、生き続けることについて、こう語っています。「あなたがたの信仰を深めて喜びをもたらすように、いつもあなた方一同と共にいることになる」(25節)と。この「喜び」のために生きよう、とパウロは言います。「喜びをもたらす」こととは、どのようなことでしょうか。

  「喜び」は感じるものですから、知的に理解するものではありません。そうであるので、自分にはパウロのような熱烈な喜びがないとか、信仰の喜びが薄いとかと感じている人は案外少なくないのではないかと思います。

  以前、ある神学者(左近豊)の講演を聞いてハッとさせられたことがあります。何かを感じる感情というものは、一見、非論理的で、人間の本能のようなものであるように思うのですが、これは文化によって、あるいは習慣によって教えられるものだというものです。例えば、日本人は雨に対して様々な感情を持つので、雨を言い表す言葉をたくさんもっています。ただの気候の話ということではなく、長雨や時雨と言えば独特の感情がありますし、春雨と秋雨でも感じるものも違います。雨が叙情的な詩になります。ところがこれを英語で表現するのが難しくて、同じ雨を見てもアメリカ人は日本人と同じようには感じないことに気づいたことを教えてくださいました。雨を見て歌を詠んだりしてしまうあなたは、やっぱり日本人だというわけですね。うれしい、悲しい、幸せ…こういった感情は、わたしたちの中に突然降って湧いてくるものではなくて、共同体の中で習得していくものなのだと言うのです。「学習が無ければ、人は悲しみという感情を本当に理解することなく成人してしまうこともある」と、ある教育学者(齋藤孝)は言いました。わたしたちの心に悲しみがやって来るとき、わたしたちは共同体の一員として、それを感じているということなのです。

3.キリストの苦しみ、喜び
  ある司祭(ジャン・ヴァニエ)が、ブラジルの子どもの施設を訪ねた時のことを書いています。朝になって、40のベッドが収容されている部屋に入って行ったところ、この部屋のどこからも泣き声ひとつ聞こえなかったと言います。ベッドに子どもがいなかったのではありません。たしかにいるのです。それでこの司祭は気づきました。この子どもたちは、泣くことを知らないのです。だれも聞いてくれない部屋、そのような社会の中で、子どもが泣く意味はないのですから。

  先週、幼稚園の保護者向けの集会で、あるお母さんが『こどもさんびか』を購入したことを教えてくださいました。お子さんと一緒に讃美歌に親しもうということなのですが、それをお子さんに見せると、「ぼくは悲しい讃美歌が歌いたいんだ」と言ったそうです。お母さんは少し困惑したようで、「悲しい讃美歌ってありますか?」と苦笑いしなら聞いてくださいました。とても興味深く思いました。キリスト者でもそんな風に言える人はなかなかいません。「悲しい讃美歌、ありますよ」と言って、『こどもさんびか』を開いて一緒に歌いました。悲しみを讃美歌で歌えるというのはすばらしいことです。悲しみを知っているということは、決して不幸せなことではなく、幸せなことなのですから。わたしたちは、この悲しみに、この苦しみに、何の意味があるのかと思います。答えは簡単ではありません。しかし、たとえ苦難の意味がわからなくても、わたしたちはそれを孤独にではなく、信仰共同体の中で経験するのです。この共同体には喜びの歌があり、悲しみの歌があります。共に祈る言葉が与えられているはずです。キリストにあって悲しみに共感し、苦しみに連帯します。キリストにあって共に喜びます。こうしてわたしたちは、ひとつの民とされていくのです。

  今日、10月の最初の主の日は、教団の行事暦で「世界聖餐日」です。第二次世界大戦の最中、分断された世界を目の当たりにしていた教会が、なお希望を持ち続けることができた場所が、この聖餐の食卓でした。この食卓が、国境や民族を超えてひとつであることを信じて、教会は祈り続けました。「世界聖餐日」は、異なる文化、政治のもとにある世界の教会が、キリストにあってひとつであることを覚える日です。この日、世界中のキリスト者が、教派を越えてひとつの食卓に与ります。この食卓で、キリストのからだに与ります。わたしたちの礼拝では、今日、聖餐に普段とは違う式文を用います。「パン裂き」をします。ここで次のような聖句が語られます。「パンは一つだから、わたしたちは大勢でも一つの体です」(Tコリ10:17)。なんと重みのあるみ言葉でしょうか。このパンにひとりで与る人はいません。わたしたちは大勢でも、それぞれがどんなに多様な背景を負っていようとも、このパンによってひとつからだとなるのだ、と語るのです。互いに喜びを分かち合い、悲しみを分かち合い、重荷を担い合うひとつからだとなるのだ、と。


祈り


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Tel/Fax 0246-21-2145
          いわき きょうかい
日本キリスト教団 磐 城 教 会
牧師 上竹 裕子
更新:2016.11.13

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