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神学校日・伝道献身者奨励日 ≪犠 牲
礼拝説教抄録

日本キリスト教団磐城教会 2016年10月9日
 29主の霊がエフタに臨んだ。彼はギレアドとマナセを通り、更にギレアドのミツパを通り、ギレアドのミツパからアンモン人に向かって兵を進めた。30エフタは主に誓いを立てて言った。「もしあなたがアンモン人をわたしの手に渡してくださるなら、31わたしがアンモンとの戦いから無事に帰るとき、わたしの家の戸口からわたしを迎えに出て来る者を主のものといたします。わたしはその者を、焼き尽くす献げ物といたします。」32こうしてエフタは進んで行き、アンモン人と戦った。主は彼らをエフタの手にお渡しになった。33彼はアロエルからミニトに至るまでの二十の町とアベル・ケラミムに至るまでのアンモン人を徹底的に撃ったので、アンモン人はイスラエルの人々に屈服した。
 34エフタがミツパにある自分の家に帰ったとき、自分の娘が鼓を打ち鳴らし、踊りながら迎えに出て来た。彼女は一人娘で、彼にはほかに息子も娘もいなかった。35彼はその娘を見ると、衣を引き裂いて言った。「ああ、わたしの娘よ。お前がわたしを打ちのめし、お前がわたしを苦しめる者になるとは。わたしは主の御前で口を開いてしまった。取り返しがつかない。」36彼女は言った。「父上。あなたは主の御前で口を開かれました。どうか、わたしを、その口でおっしゃったとおりにしてください。主はあなたに、あなたの敵アンモン人に対して復讐させてくださったのですから。」37彼女は更に言った。「わたしにこうさせていただきたいのです。二か月の間、わたしを自由にしてください。わたしは友達と共に出かけて山々をさまよい、わたしが処女のままであることを泣き悲しみたいのです。」38彼は「行くがよい」と言って、娘を二か月の間去らせた。彼女は友達と共に出かけ、山々で、処女のままであることを泣き悲しんだ。39二か月が過ぎ、彼女が父のもとに帰って来ると、エフタは立てた誓いどおりに娘をささげた。彼女は男を知ることがなかったので、イスラエルに次のようなしきたりができた。40来る年も来る年も、年に四日間、イスラエルの娘たちは、ギレアドの人エフタの娘の死を悼んで家を出るのである。

士師記 11章29〜40節
 11けれども、キリストは、既に実現している恵みの大祭司としておいでになったのですから、人間の手で造られたのではない、すなわち、この世のものではない、更に大きく、更に完全な幕屋を通り、12雄山羊と若い雄牛の血によらないで、御自身の血によって、ただ一度聖所に入って永遠の贖いを成し遂げられたのです。13なぜなら、もし、雄山羊と雄牛の血、また雌牛の灰が、汚れた者たちに振りかけられて、彼らを聖なる者とし、その身を清めるならば、14まして、永遠の“霊”によって、御自身をきずのないものとして神に献げられたキリストの血は、わたしたちの良心を死んだ業から清めて、生ける神を礼拝するようにさせないでしょうか。
 15こういうわけで、キリストは新しい契約の仲介者なのです。それは、最初の契約の下で犯された罪の贖いとして、キリストが死んでくださったので、召された者たちが、既に約束されている永遠の財産を受け継ぐためにほかなりません。
ヘブライ人への手紙 9章11〜15節
1.献身
  今日、10月の第二日曜日は、わたしたちの教団のカレンダーで「神学校日・伝道献身者奨励日」として定められる日曜日です。この日は特に、わたしたちの教会でも、神学校の働きと神学生の研鑽を憶えて祈りを合わせます。「献身」は、しかし、一部の限られた人たちの言葉ではありません。一人ひとりの信仰生活の中で、「献身」を考えていくことは重要なことです。

  ベトナム戦争で、南ベトナム軍とアメリカ軍は、ラオスに多くの爆弾を落としました。その数は、第二次世界大戦のドイツと日本に落とされた数よりも多いと言われます。6メートルの長い筒に野球ボールのような600の爆弾が入っています。今も、ラオス国土の半分に数百万の不発弾が埋まっています。まだ10パーセント程度しか処理されておらず、すべてを処理するまでに100年くらいかかるだろうと言われているそうです。そしてまた、この爆弾は、人を殺すのではなく、人の足や目や手を傷つけ障害を負わせるものだと言います。爆発によって今も多くの人が障害者となっています。

  激戦地となった南ベトナムに、各国から成るキリスト教奉仕団のチームが難民救済のために派遣されました。この地域は、反米感情が非常に強く、奉仕団として遣わされたアメリカ人のメンバーの多くが殺されたり、誘拐されたりしたと言います。アメリカ人以外の人を派遣する他なく、カナダ、ドイツ、日本のチームで仕事をすることとなりました。カナダ人看護者が休暇の間、アメリカ人が入ると、その人は背中を撃たれて死に、医師も誘拐されるというほどの緊迫した状況だった言います。それほどに深い、憎しみ、悲しみがあるのです。痛みに引き裂かれた現実を目にしながら、現場で働いた日系カナダ人の宣教師がいます。彼は、この場所で、何度も自分は生きて帰れないだろうと思ったと言います。この中で「主の祈り」を祈り、「今日の糧を与えたまえ」、「この日のいのちを与えたまえ」と繰り返し祈った、という話を聞かせてくださいました。この40年前の体験が、自らの人生観に大きな影響を与えたと話されました。

  この方は今、バンコクを拠点としながら、国際的に障害者福祉の実践で目まぐるしく活躍しています。カナダからバンコクに遣わされ、20年もの時間をかけて、障がいある人たちと共に生きる社会を切り拓く革新的な働きを担われてきました。先週、わたしは、この方の講演を聞く機会がありました。講演を聞いた人たちは、口々に、どうしてそこまで献身できるのか、と尋ねていました。「先生のそのバイタリティはどこから来るのですか」と。先生は、自らの原点となったベトナム戦争の厳しい体験をわたしたちに語り、何かをするとき、いつも生きていることへの感謝があるとお話しくださいました。

  「献身」を考えるとき、わたしたちの方に優れた理由があるのではありません。まず、神からの贈りものがあり、神御自らの献身があるのです。

2.見よ、神の小羊
  主イエス・キリストの献身の事実から出発することが重要です。キリストの献身を抜きにした「献身」は、どんな労苦も虚しい苦行に、どんな偉大な業も単なる自己実現にならないでしょうか。今日、聖書は語りかけています。キリストは、「御自身の血によって、ただ一度聖所に入って永遠の贖いを成し遂げられた」(12節)と。「わたしたちの良心を死んだ業から清める」(14節)ために、と語ります。

  ヨハネによる福音書の初めに、洗礼者ヨハネという人が登場します。洗礼者ヨハネは、主イエス・キリストの親類であったと言われています。主イエスよりも半年ほど前に生まれ、主イエスを証することをその生涯の使命としました。古来、洗礼者ヨハネのシンボルとして描かれてきたもののひとつが、「指」です。彼は、主イエスを指し示す「指」として生きました。あるとき、ヨハネは、向こうから歩いて来られる主イエスを指して、言いました。「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ」(ヨハ1:29)と。古くから教会は、この洗礼者ヨハネの叫びをもって祈り続けてきました。ラテン語で「Agnus Dei アニュス・デイ」(神の小羊)と呼ばれる祈りです。「世の罪を取り除く神の小羊、わたしたちを憐れんでください」。音楽がお好きな方であれば、バッハの「ロ短調ミサ曲」やフォーレの「レクイエム」などの音楽と共に、この言葉を思い出されるかもしれません。この方こそ、人間の罪を担い、取り除くために、犠牲としてささげられる神の小羊だ、と洗礼者ヨハネは言いました。

  年に一度、大祭司は、贖いの日に「至聖所」(聖所の奥の部屋)にただひとり入って、自分と一族、また民全体のために罪の贖いの儀式を行いました(レビ16章)。旧約以来、人々の罪の贖いのために、繰り返し、繰り返し、動物の犠牲の血がささげられました。「命は血の中にある」(レビ17:11)と見なされました。命であるゆえに、血が贖いとなるのです。屠られた犠牲の血によって、人々の汚れは清められました。

  これはわたしたちとまったく関係のない儀式ではないのです。わたしたちの世代もまた、どこかに贖罪の羊を見つけては、それに責任をなすりつけてきたからです。責任を負ってくれる、自分ではない、だれかを探し続けてきました。いつもだれかが、だれかを犠牲にしています。だれかがだれかの犠牲になっています。わたしたちはそのような歴史を繰り返してきました。しかし、わたしたちは気づかされます。罪ある者は、人の罪を完全に贖うことはできない、ということに。「きずのない」(14節)方が、きずある者に代わって贖いの犠牲となられるのです。その方は、「打とうとする者には背中をまかせ、ひげを抜こうとする者には頬をまかせ」(イザ50:6)られました。御自ら「苦難の僕」として十字架を引き受け、担おうとされる方を、洗礼者ヨハネは指して言っているのです。「見よ、世の罪を取り除く神の小羊」と。

3.完全なゆるし
  主イエス・キリストのご生涯、特にご受難を描いた多くの芸術作品の題材となってきた言葉の中に、「この人を見よ」(ecce homo)という言葉があります。教会生活の長い方は、「馬槽のなかに」(『讃美歌21』280番)という讃美歌を思い出されるかもしれません。この讃美歌に次のような歌詞があります。「すべてのものを あたえしすえ、死のほかなにも むくいられで、十字架のうえに あげられつつ 敵をゆるしし この人を見よ」(3節)。

  主イエスは十字架におかかりになる前、捕えられ、鞭打たれて、茨の冠をかぶせられ嘲笑されました。ローマの総督ポンテオ・ピラトは、主イエスを人々の前に立たせて言いました。「見よ、この男だ」(ヨハ19:5)と。人々は、これにすぐ反応して、叫びました。「十字架につけろ。十字架につけろ」(ヨハ19:6)。

  聖書は、繰り返しわたしたちに語りかけます。「見よ、この人を」(ecce homo)と。この言葉を聞くとき、わたしたちは十字架を見ます。十字架に、苦しむ神の姿を見ます。同時に、この十字架に映し出されるのは、人間の憎しみと、残酷さです。人間が人間の命を犠牲にすることとは、こういうことです。ヘブライ人への手紙には、このような言葉があります。「あなたがたはまだ、罪と戦って血を流すまで抵抗したことがありません」(12:4)。わたしたちはまだ、そこまで深く、罪の重さを知っているとも言えない者です。

  それにもかかわらず、主イエスは十字架の上で、わたしたちのために血を流してくださいました。十字架の上で、わたしたちすべての者がその全貌を知り得ない闇、到底勝ちえない罪と戦い、敗北ではなく、勝利をもたらしてくださいました。この十字架を、主は、罪の裁きの座ではなく、罪の赦しの座に、わたしたちの贖いの座にしてくださったのです。それゆえに、洗礼者ヨハネは、主イエスを指してこう言ったのです。「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ」と。

  わたしたち人間の良心を完成させるために、律法が与えられました。「心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして」(申6:5)神を礼拝するために与えられた律法が、かえってわたしたちの良心が死にかけていることを明らかにしました。主が御自ら命をささげられたのは、「わたしたちの良心を死んだ業から清めて、生ける神を礼拝する」(14節)ためです。わたしたちは、主との出会いによって、生ける神を礼拝する者へと変えられます。なお、日々さまざまな現実に直面します。しかし、その現実の深みにおいて、わたしたちは清くされています。主に贖われ、主のものとされているからです。わたしたちがこの礼拝に招かれたのに、これ以外の理由はありません。礼拝は、単なる儀式ではなく、新しい生活への招きなのです。愛する皆さん、「あなたがたに勧めます。自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です」(ロマ12:1)。


祈り


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          いわき きょうかい
日本キリスト教団 磐 城 教 会
牧師 上竹 裕子
更新:2016.11.13

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