印刷用PDF(A4版)
降誕前第9主日 ≪創 造≫
礼拝説教抄録

日本キリスト教団磐城教会 2016年10月23日
1 知恵が呼びかけ 英知が声をあげているではないか。

22主は、その道の初めにわたしを造られた。
 いにしえの御業になお、先立って。
23永遠の昔、わたしは祝別されていた。
 太初、大地に先立って。
24わたしは生み出されていた
 深淵も水のみなぎる源も、まだ存在しないとき。
25山々の基も据えられてはおらず、丘もなかったが
 わたしは生み出されていた。
26大地も野も、地上の最初の塵も
 まだ造られていなかった。
27わたしはそこにいた
 主が天をその位置に備え
 深淵の面に輪を描いて境界とされたとき
28主が上から雲に力をもたせ
 深淵の源に勢いを与えられたとき
29この原始の海に境界を定め
 水が岸を越えないようにし
 大地の基を定められたとき。
30御もとにあって、わたしは巧みな者となり
 日々、主を楽しませる者となって
 絶えず主の御前で楽を奏し
31主の造られたこの地上の人々と共に楽を奏し
 人の子らと共に楽しむ。
箴言 8章1、22〜31節
 1わたしはまた、新しい天と新しい地を見た。最初の天と最初の地は去って行き、もはや海もなくなった。2更にわたしは、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために着飾った花嫁のように用意を整えて、神のもとを離れ、天から下って来るのを見た。3そのとき、わたしは玉座から語りかける大きな声を聞いた。「見よ、神の幕屋が人の間にあって、神が人と共に住み、人は神の民となる。神は自ら人と共にいて、その神となり、4彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。最初のものは過ぎ去ったからである。」

 22わたしは、都の中に神殿を見なかった。全能者である神、主と小羊とが都の神殿だからである。23この都には、それを照らす太陽も月も、必要でない。神の栄光が都を照らしており、小羊が都の明かりだからである。24諸国の民は、都の光の中を歩き、地上の王たちは、自分たちの栄光を携えて、都に来る。25都の門は、一日中決して閉ざされない。そこには夜がないからである。26人々は、諸国の民の栄光と誉れとを携えて都に来る。27しかし、汚れた者、忌まわしいことと偽りを行う者はだれ一人、決して都に入れない。小羊の命の書に名が書いてある者だけが入れる。
ヨハネの黙示録 21章1〜4、22〜27節
1.創造
  10月は行事月ですが、さまざまな時を楽しみ、味わいながら、わたしたちは新しい時を迎えました。教会暦では「降誕前節」という期節に入りました。アドヴェント・クランツもまだありませんし、聖壇の掛布の典礼色が変わったわけではありません。皆さんは、何も変わらない気持ちで礼拝にお出でになったかもしれません。主イエス・キリストのご降誕を祝うクリスマスまでのカウントダウンを始めるには、まだ気が早すぎるように思いますが、朝晩には冷え込み、ずい分と日が短くなったと感じます。季節の移り変わるのを肌で感じるのと同じように、神のご計画に思いを馳せることは大切なことです。

  神のご計画は、ただ一点を見つめているばかりでは見えてはきません。聖書が描き出す神の救いの歴史は、一点、一点を結び、たしかな線となって浮かび上がります。わたしたちもまた、ただ今に夢中になるばかりでは、見えないことがあります。わたしたちは、出発地があり、目的地を持つ旅路を歩んでいます。すべてのことに、初めがあり、終わりがあります。わたしたちは、そのことに心を向けるために、礼拝に招かれています。今日、降誕前第9主日の主題は、「創造」です。イエス・キリストに至る神の救済の歴史は、創造に始まります。神の創造を知るということならば、部屋の中にいるよりは、海や山に出かけて行く方がよほど有意義なのではないでしょうか?

  山歩きの好きなわたしの父は、この季節はじっとしていません。先日、「魔女の瞳」とも呼ばれる五色沼を目当てに紅葉で色づいた一切経を、ひとりで歩いたそうです。テレビで特集されているのを見て、不意に行きたくなったということらしいのですが。それも、現在のルートができる以前に、昔よく通っていたという裏道のようなところを歩いてみたいと思い立って、藪の中を行き、熊に出遭ったと言うのです。大きな熊だったそうですが、人間を見て恐れたのか木に登って行ってしまったと言います。父は何もなかったようにゆっくりと通り過ぎたということだったようなのですが、これを聞いた母は「大事になっていたら大変。悪い大人のお手本」と言ってあきれていました。生身の人間が道なき道を歩くことは、熊に出遭うということなのですね。

  福島には、スカイラインやレイクライン、ゴールドラインといったこの季節ににぎわう人気のドライブコースがあります。わたしなどはゴールドラインと聞くだけで、脳内の想像でドーパミンが出ます。ため息が出るほど美しい山々を、車窓から眺めて時短で楽しむことができます。でも、ふと思います。この道を作るのは大変なことだったろうなと。わたしたちは「山」とか「自然」とかと呼んで楽しんでいる場所の多くは、木道や標識があったり、トイレや休憩所が備えられていたりします。野生そのままの自然は、荒っぽくて、危険なものも多く、生身の人間にとっては効率が悪いですし、リスクが高すぎるのかもしれません。

2.知恵
  わたしたちが生身の体で、道もない山に、あるいは海の深みに身を投げ出したところで、どれほどのことを知ることができるでしょうか。神の創造の不思議は、自然世界の隅々にまで及びます。わたしたちは、自分自身のことでさえ十分に知ることはできません。わたしたちの体も心も、非常に複雑で緻密なしくみの中で動いています。わたしたちは、「知恵」(1節)によって世界を、また自分自身をより深く知ることができます。神が、「知恵」をもってすべてのものを創造されたからです。知恵は、神が天地万物をお造りになったことの証人です。知恵はさらに、神の創造のみ業を伝えるものとして登場します。

  知恵は自らについてこう語ります。「主は、その道の初めにわたしを造られた。いにしえの御業になお、先立って」(22節)。神の創造の物語の第1ページを、箴言は「その道の初めに」と語り始めます。聖書は、天地万物の創造について、今日の科学者や歴史家が求めるように詳細な証拠によって解説したものではありません。「初めに」と聖書が言うとき、それは時間上のスタート地点ではなく、ものごとのもっとも根源的なところを指します。旧約聖書の最初に置かれた創世記の1章にも、「初めに」という言葉が登場します。「初めに、神は天と地を創造された」(創1:1)と。箴言は、神の天地創造の物語を創世記とは違った視点で描いています。知恵の視点です。

  新約聖書にも天地万物の創造について、もうひとつの視点で語っている箇所があります。新約聖書のヨハネによる福音書1章です。キリストの使徒ヨハネは、福音の初めをこう記しました。「初めに言があった。言は神と共にあった」(ヨハ1:1)。ヨハネは、明らかに創世記の1章を意識しています。同時に、ヨハネの心の中には、箴言の伝える創造物語があります。「この言は、初めに神と共にあった。万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった」(ヨハ1: 2〜3)と語ります。

  ヨハネ福音書を、最初に日本語に翻訳したカール・ギュツラフというドイツ人宣教師があります。ギュツラフは、日本伝道のために習った日本語で、ヨハネ福音書の初めをこのように記しました。「ハジマリニ カシコイモノゴザル。コノカシコイモノ ゴクラクトモニゴザル」。1839年の翻訳です。「カシコイモノ」と訳された言葉は、聖書のギリシャ語で「ロゴス」という言葉です。「ロゴス」は、言葉や理性といった意味合いの言葉です。英語のlogic(論理、理論)や-logy(学問)という言葉もこの「ロゴスlogos」から派生しています。物事の理、筋道を表すのがロゴスです。天地創造の初めに、物事の筋道を示す「カシコイモノ」があったと、聖書は語ります。ギュツラフの翻訳が味わい深いのは、ロゴスに人格的な響きを持たせているからかもしれません。「カシコイモノ」とは、神の知恵であり、神の言であるイエス・キリストを示しています。

3.命の書に
  神の創造の秘密の重大な一部が、ここで明かされています。それは、神の創造のみ手が、わたしたちの方に向けられているということです。宇宙の広さ。海の深さ。太古の時間。わたしたちには到底知り得ない世界です。しかし、神は知恵において、言葉において、この世界をお造りになりました。わたしたちを真空のブラックホールの中にではなく、秩序ある呼吸の中にお造りになりました。わたしたちが息を吐けば必ず吸うように、わたしたちが深いところで神と交わり、対話することができるようにお造りになったのです。わたしたちは、神の知恵において、言葉において、山に分け入るよりも深く、神の創造を知ることができます。

  知恵は語ります。「主が天をその位置に備え 深淵の表に輪を描いて境界とされた」(27節)、「主が上から雲に力をもたせ 深淵の源に勢いを与えられた」(28節)、「この原始の海に境界を定め 水が岸を超えないようにし 大地の基を定められた」(29節)と。知恵は、神の創造のみ業が、はっきりとした「境界」を持つものであることを伝えます。輪郭を持ち、秩序あるものであることを伝えています。知恵は、しかし、神の創造の決定的瞬間を厳粛な空気の中で凝視していた、というのではありません。「御もとにあって、わたしは巧みな者となり 日々主を楽しませる者となって 絶えず御前で楽を奏し」(30節)た、とあります。

  「巧みな者」という言葉は、旧約聖書のヘブライ語で「アーモーン」という言葉です。わたしたちがよく唱和する「アーメン」という言葉に語源を持っています。「アーメン」とは、「確かです」、「真実です」という意味です。「アーメン」が変化した「アーモーン」は、確かな土台を置くもの、つまり「建築家」や「名匠」を意味します。「巧みな者」としての知恵は、神の創造のみ業に積極的に参与しているようにイメージできます。また、「アーモーン」という言葉を受け身にすると、しっかりした者に抱かれている者、「乳飲み子」、「幼な子」といった意味を持つようになります。それゆえ、この箇所の「アーモーン」というヘブライ語を、「寵児」、「お気に入り」と訳しているものもあります(ルター、ワイブレイなど)。

  知恵は、決して堅苦しいものではなく、子どものように神のもとで喜んで戯れているのです。そればかりでなく知恵は「日々、主を楽しませる」と言います。子どもが楽しそうに笑ったり歌ったりしていると、親はそれだけでうれしくなるものです。知恵は、神を喜ばせ、神の創造のみ業を楽しくするものとして存在しています。聖書は、こう語ります。「神は、お造りになったすべてのものをご覧になった。見よ、それは極めてよかった」(創1:31)と。神は、わたしたちすべての者を深い知恵のうちにお造りになり、喜ばれ、「極めてよい」と言われます。わたしたちを探し出し、救うために、創造の初めからその名を「命の書」(黙21:27)に書き記してくださっているのです


祈り


〒970-8036 いわき市平谷川瀬字仲山町25
Tel/Fax 0246-21-2145
          いわき きょうかい
日本キリスト教団 磐 城 教 会
牧師 上竹 裕子
更新:2016.11.14

Copyright 2011-2013 IWAKI KYOUKAI All Rights Reserved.


inserted by FC2 system