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降誕前第8主日 ≪堕 落≫
礼拝説教抄録

日本キリスト教団磐城教会 2016年10月30日
6 イスラエルの王である主
 イスラエルを贖う万軍の主は、こう言われる。
 わたしは初めであり、終わりである。
 わたしをおいて神はない。
7 だれか、わたしに並ぶ者がいるなら
 声をあげ、発言し、わたしと競ってみよ。
 わたしがとこしえの民としるしを定めた日から
 来るべきことにいたるまでを告げてみよ。
8 恐れるな、おびえるな。
 既にわたしはあなたに聞かせ
 告げてきたではないか。
 あなたたちはわたしの証人ではないか。
 わたしをおいて神があろうか、岩があろうか。
 わたしはそれを知らない。

9 偶像を形づくる者は皆、無力で
 彼らが慕うものも役に立たない。
 彼ら自身が証人だ。
 見ることも、知ることもなく、恥を受ける。
10無力な神を造り
 役に立たない偶像を鋳る者はすべて
11その仲間と共に恥を受ける。
 職人も皆、人間にすぎず
 皆集まって立ち、恐れ、恥を受ける。
12鉄工は金槌と炭火を使って仕事をする。
 槌でたたいて形を造り、強い腕を振るって働くが
 飢えれば力も減り、水を飲まなければ疲れる。
13木工は寸法を計り、石筆で図を描き
 のみで削り、コンパスで図を描き
 人の形に似せ、人間の美しさに似せて作り
   神殿に置く。
14彼は林の中で力を尽くし
 樅を切り、柏や樫の木を選び
 また、樅の木を植え、雨が育てるのを待つ。
15木は薪になるもの。
 人はその一部を取って体を温め
 一部を燃やしてパンを焼き
 その木で神を造ってそれにひれ伏し
 木像に仕立ててそれを拝むのか。
16また、木材の半分を燃やして火にし
 肉を食べようとしてその半分の上であぶり
 食べ飽きて身が温まると
 「ああ、温かい、炎が見える」などと言う。
17残りの木で神を、自分のための偶像を造り
 ひれ伏して拝み、祈って言う。
 「お救いください、あなたはわたしの神」と。
イザヤ書 44章6〜17節
 21ところが今や、律法とは関係なく、しかも律法と預言者によって立証されて、神の義が示されました。22すなわち、イエス・キリストを信じることにより、信じる者すべてに与えられる神の義です。そこには何の差別もありません。23人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、24ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです。25神はこのキリストを立て、その血によって信じる者のために罪を償う供え物となさいました。それは、今まで人が犯した罪を見逃して、神の義をお示しになるためです。26このように神は忍耐してこられたが、今この時に義を示されたのは、御自分が正しい方であることを明らかにし、イエスを信じる者を義となさるためです。
 27では、人の誇りはどこにあるのか。それは取り除かれました。どんな法則によってか。行いの法則によるのか。そうではない。信仰の法則によってです。28なぜなら、わたしたちは、人が義とされるのは律法の行いによるのではなく、信仰によると考えるからです。
ローマの信徒への手紙 3章21〜28節
1.源泉に帰れ
  明日は、わたしたちプロテスタント教会の原点である宗教改革記念日です。1517年10月31日。ドイツのヴィッテンベルクの教会の壁に、修道士であったマルティン・ルターが、教皇宛に「95か条の提題」を貼り出したことから宗教改革は始まりました。「95か条の提題」は、当時の教会の腐敗したあり方に疑問を呈するものでした。具体的には、教会の会堂建築の資金集めのために、教会の特権である罪の赦しを免罪符として売っていたことです。ルターは、「95か条の提題」を次のような言葉で始めました。「わたしたちの主であり師であるイエス・キリストが『悔い改めよ』と言われたとき、キリスト者の全生涯が悔い改めであることを求められたのである」(命題1)。悔い改めの欠如が腐敗を招くことは、決して過去のことではありません。

  宗教改革の三大原理があります。「聖書のみ」、「信仰のみ(信仰義認)」、「万人祭司」です。神の救いは、ただ「イエス・キリストを信じることにより、信じる者すべてに与えられる」(ロマ3:22)と、聖書は語っています。しかし、「信仰のみ」と言いながらそれだけでは足りないように考えたり、「聖書のみ」と言いながら何か別のものを付け加えたりすることを、キリスト者は繰り返してきたのです。「源泉へ帰れ」(ad fontes)という言葉が、宗教改革期に標語として掲げられていました。幾重にも上塗りされた聖書の原典に立ち帰るのです。人間の行いが何か救いを左右する力を持つかのように思われていましたが、しかし聖書は、ただ神にのみ救う力があると語っています。

  宗教改革記念の日に、わたしは初めて教会に足を踏み入れました。毎年この季節になると、背筋が伸びる思いがします。わたしたちは、何かふとしたきっかけで「初心に帰ろう」と思うことがあります。「初心に帰りたい」などと口にします。「初心」とは、志を熱く燃やしていた自分であったり、緊張感を持ちながら一生懸命に進み始めた自分であったりします。初々しい頃の自分を思い起こすと、なんだかとても清清しい気持ちになります。しかし、初めのころの自分を本当に振り返るならば、そう美しい思い出ばかりではないのではないでしょうか。かえって、無知であるがゆえに、未熟であるがゆえに、疑ってかかったり、トンチンカンなことを考えていたり、妙なことを言ったりしていた自分を思い出して、記憶から消したいと思うことも、わたしはしばしばです。過去をドラマティックに語ることもできないことではありませんが、美化せず本当のことを思い出すと、必ずしも鮮やかなものではなく、むしろ恥ずかしいことばかりです。「初めのころ」がそんなにすてきだったかと考えると、疑問です。

  わたしたちは自らの決断としての「初心」に立ち帰るというのではありません。わたしたちを救う神の決断を知った、その「初心」に立ち帰るのです。ここに再出発の力があります。

2.何かに熱くかける人
  教会暦では、主イエス・キリストのお生まれを祝うまでの「降誕前節」を歩んでいます。この期節、日曜日ごとに天地創造からキリスト誕生までの歩みを辿り、神の救いの歴史を回顧します。神の救済史を語る聖書は、神の喜びに満ちた創造の物語から、すぐに暗転します。人間の「堕落」という主題を提示しています。造られた者が造り主を忘れ、罪に陥るのです。

  旧約聖書の預言者イザヤは語ります。「イスラエルの王である主 イスラエルを贖う万軍の主は、こう言われる。わたしは初めであり、終わりである。わたしをおいて他に神はない」(6節)。聖書には、偶像崇拝にふける人々の姿がたびたび登場します。イザヤの時代は、旧約史上もっとも困難な時代でした。時代の裂け目でした。永続すると信じられていた神殿のある都エルサレムが、強国によって攻め滅ぼされ、おもだった人々が外国の地に連れて行かれます。人々は長い間、異教の地で捕囚という苦しみの中に身を置かなければなりませんでした。

  故郷から散らされた人々は、異教の地ではびこっていた偶像崇拝を目の当たりにしています。「鉄工は金槌と炭火を使って仕事をする。槌でたたいて形を造り、強い腕を振るって働く」(12節)。「木工は寸法を計り、石筆で図を描き のみで削り、コンパスで図を描き 人の形に似せ、人間の美しさに似せて作り 神殿に置く」(13節)。この地の人々は、勤勉で文化的な生活の中で偶像を拝しています。一見、寛容で充実しているような暮らしの中に、イザヤは、幸福ではなく虚しさを見ます。人々に向かって語りかけます。「偶像を形づくる者は皆、無力で 彼らが慕うものも役に立たない」(9節)と。信仰は堕落し、人々は次第に偶像を持つことに慣れていきます。このような人たちは、信仰が薄く怠け者だったということではないように思います。むしろ、勤勉で自分自身の能力と努力にかけようとする人たちだったのではないでしょうか。自分の暮らしをよりよいものにするための手段を探しているのです。何を信じて拝めばよいのか。効力のあるものは何か。何に投資すべきか。わたしたちが、ほとんどいつもさらされている誘惑でもあります。

  神に造られた存在でありながら、神をつくろうとして偶像をつくり上げる人間の生活を、聖書は描き出します。人は、「木材の半分を燃やして火にし」たかと思えば、「肉を食べようとしてその半分の上であぶり、食べ飽きて身が温まると 『ああ、温かい、炎が見える』などと言う」(16節)。果てには、「残りの木で神を、自分のための偶像を造り、ひれ伏して拝み」(17節)始める、と。人々が拝むのは、合理的な神です。「カープが勝ちますように」とか、「日本ハムが勝ちますように」とかと熱く祈ってしまうのが人間です。神がどういう方であるかを憶えようとしないとき、そのことを忘れてしまうとき、神という存在は、わたしたちの自己満足のただの道具になってしまいます。

3.「とって」のない十字架
  小山晃佑という神学者は、十字架につけられた神について語っています。主イエス・キリストの十字架を、次のように表現しています。把手があれば便利でよいのに、「把手を欠くゆえに携えるのに甚だ不便な物」。魅力的な物であればよいのに、「運ぶ姿が醜い物」。迅速な動きであればよいのに、「のろくさい動き」。能率的ではなく、「非能率」。安全無事ではなく、「不用心」。俊足であってほしいのに、「鈍足」。栄光ではなく、「苦痛」。自己肯定ではなく、「自己否定」…。「このばかでかくて、重い、意気阻喪させる物を運ぶにはどうしたらよいか?」と。このような十字架に対して、把手を持つ物が挙げられています。例えば、ビジネスマンの書類カバンです。ドアはノブ(把手)によって操作すれば能率的に開閉できます。把手は、能率的な操縦や管理の手段を象徴しています。強力なエンジンを備えた車がわたしたちに従うのは、わたしたちがハンドルを握って操縦するからです。

  今朝わたしたちは、いくつの器具のスイッチをオンにし、またオフにしてきたでしょうか。電気をつける、消す。水道を出す、止める。ガスで火をつける、消す。ストーブをつける、消す。これらの器具を操作するのは、スイッチを通してです。生活を支えるもっとも基本的な素材であるはずの水も火も、今日、わたしたちはスイッチなしに扱うことはほとんどできません。小山氏はこう言います。「発達したテクノロジー的装置はわれわれに『エンジン』(動力)と『ハンドル』(制御手段)とを与えてくれる。テクノロジーは制御されている力である」と。また「テクノロジー的精神は『万物を道具扱いしたがる精神』であるのに対して、神学的精神は『道具扱いを拒む精神』である」とも。高度なテクノロジーの中での暮らしていると、知らず知らずのうちにテクノロジー的な精神が体に染みついてしまいます。主イエスのひげをそり落とし、おしゃれなスーツを着せ、軽くて機能性に富むかばんを持たせようとしているのではないか。十字架をコンパクトにして、携帯に便利な、あるいはおしゃれなアクセサリーとしていないか。このような問いの前に立ち止まってみなければなりません。十字架はそのようなものではなく、神はまったくそのような方ではないからです。

  イザヤの時代、神殿のある都エルサレムが奪われ、廃墟とされたとき、有力な指導者たちが皆捕囚とされたとき、敗北した聖書の民は、歴史の舞台から撤退するしかないように見えました。何もかも終わってしまったように。しかし、この希望を見失った人々の間で、神はご自分を現されます。「わたしは初めであり、終わりである。わたしをおいて他に神はない」と。神の救いの歴史は終わってはおらず、「来るべきこと」(7節)に向かって継続していると告げられたのです。偶像は月日と共に移ろいますが、主は来られます。希望の見えない場所に立って、預言者は語りかけます。「主のために、荒れ野に道を備えよ」(イザ40:3)と。


祈り


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          いわき きょうかい
日本キリスト教団 磐 城 教 会
牧師 上竹 裕子
更新:2016.11.14

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