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降誕前第6主日 ≪救いの約束(モーセ)≫
礼拝説教抄録

日本キリスト教団磐城教会 2016年11月13日
 15あなたの神、主はあなたの中から、あなたの同胞の中から、わたしのような預言者を立てられる。あなたたちは彼に聞き従わねばならない。16このことはすべて、あなたがホレブで、集会の日に、「二度とわたしの神、主の声を聞き、この大いなる火を見て、死ぬことのないようにしてください」とあなたの神、主に求めたことによっている。17主はそのときわたしに言われた。「彼らの言うことはもっともである。18わたしは彼らのために、同胞の中からあなたのような預言者を立ててその口にわたしの言葉を授ける。彼はわたしが命じることをすべて彼らに告げるであろう。19彼がわたしの名によってわたしの言葉を語るのに、聞き従わない者があるならば、わたしはその責任を追及する。20ただし、その預言者がわたしの命じていないことを、勝手にわたしの名によって語り、あるいは、他の神々の名によって語るならば、その預言者は死なねばならない。」21あなたは心の中で、「どうして我々は、その言葉が主の語られた言葉ではないということを知りうるだろうか」と言うであろう。22その預言者が主の御名によって語っても、そのことが起こらず、実現しなければ、それは主が語られたものではない。預言者が勝手に語ったのであるから、恐れることはない。
申命記 18章15〜22節
 11さて、その男がペトロとヨハネに付きまとっていると、民衆は皆非常に驚いて、「ソロモンの回廊」と呼ばれる所にいる彼らの方へ、一斉に集まって来た。12これを見たペトロは、民衆に言った。「イスラエルの人たち、なぜこのことに驚くのですか。また、わたしたちがまるで自分の力や信心によって、この人を歩かせたかのように、なぜ、わたしたちを見つめるのですか。13アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神、わたしたちの先祖の神は、その僕イエスに栄光をお与えになりました。ところが、あなたがたはこのイエスを引き渡し、ピラトが釈放しようと決めていたのに、その面前でこの方を拒みました。14聖なる正しい方を拒んで、人殺しの男を赦すように要求したのです。15あなたがたは、命への導き手である方を殺してしまいましたが、神はこの方を死者の中から復活させてくださいました。わたしたちは、このことの証人です。16あなたがたの見て知っているこの人を、イエスの名が強くしました。それは、その名を信じる信仰によるものです。イエスによる信仰が、あなたがた一同の前でこの人を完全にいやしたのです。17ところで、兄弟たち、あなたがたがあんなことをしてしまったのは、指導者たちと同様に無知のためであったと、わたしには分かっています。18しかし、神はすべての預言者の口を通して予告しておられたメシアの苦しみを、このようにして実現なさったのです。19だから、自分の罪が消し去られるように、悔い改めて立ち帰りなさい。20こうして、主のもとから慰めの時が訪れ、主はあなたがたのために前もって決めておられた、メシアであるイエスを遣わしてくださるのです。21このイエスは、神が聖なる預言者たちの口を通して昔から語られた、万物が新しくなるその時まで、必ず天にとどまることになっています。22モーセは言いました。『あなたがたの神である主は、あなたがたの同胞の中から、わたしのような預言者をあなたがたのために立てられる。彼が語りかけることには、何でも聞き従え。23この預言者に耳を傾けない者は皆、民の中から滅ぼし絶やされる。』24預言者は皆、サムエルをはじめその後に預言した者も、今の時について告げています。25あなたがたは預言者の子孫であり、神があなたがたの先祖と結ばれた契約の子です。『地上のすべての民族は、あなたから生まれる者によって祝福を受ける』と、神はアブラハムに言われました。26それで、神は御自分の僕を立て、まず、あなたがたのもとに遣わしてくださったのです。それは、あなたがた一人一人を悪から離れさせ、その祝福にあずからせるためでした。」
使徒言行録 3章11〜26節
1.選ばれた結果…?
  今、木曜日の祈り会では、日本基督教団の信仰告白の学びをしています。先週の学びは、ちょうどその第三段落目でしたが、次のような文言によって始まっています。「神は恵みをもて我らを選び、ただキリストを信ずる信仰により、我らの罪を赦して義としたまふ」。この段落には、プロテスタント教会が宗教改革以来、特に中心に据えてきた信仰が掲げられています。それは、神の恵みの選びです。「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ」(ヨハ15:16)と、神は言われます。

  神は、故なくして神の民をお選びになりました。旧約の古い信仰告白に次のようなものがあります。「わたしの先祖は、滅びゆく一アラム人であり、わずかな人を伴ってエジプトに下り、そこに寄留しました」(申26:5)。イスラエルは、誇れるほどの何かを持っていたわけではなく、遊牧ながらさまよい歩く寄留者であったことを、自ら告白しています。しかし、そのようなわたしたちを神は御目に留められ、「力ある御手と御腕を伸ばし」(申26:8)、救い出された、と。神は、なぜなのか、アブラハムを選ばれました。「アブラハムは主を信じた。主はそれを彼の義と認められた」(創15:6)とあります。そして神は、なぜなのか、このアブラハムを父祖とする民、イスラエルをご自分の民とされ、それゆえに聖なる民とされ、諸国の民の祝福の源とされたのでした。なぜなのでしょうか。神の選びの理由を知りたいなら、聖書に登場する人物に出会うことです。聖書を読めば読むほどがっかりするかもしれません。聖書に登場する人物は、非の打ちどころがない人たちでしょうか。わたしには、多くが非を打ちっぱなしのような人たちに見えます。自分とさほど変わらない人たちに見えます。ここまで来れば、ここにいるわたしたちがよくわかることです。神の選びの理由は、わたしたちの側にはないのです。

  教団信仰告白は、次の言葉に続きます。「この変わらざる恵みのうちに、聖霊は我らを潔めて義の果を結ばしめ、その御業を成就したまふ」。学びに参加している方がおっしゃいました。一方的に選ばれたにもかかわらず、選ばれた結果、わたしたちはきよめられねばならない。「信仰のみ」と言いながら、結局信仰だけではダメなのではないですか、というのですね。「義の果を結ばしめ」ねばならないのですから。聖書は「義の果」について語っています。「霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制です」(ガラ5:22〜23)と。ここを読むと、教会の皆さんは目を輝かせるでしょうか。かえって無言のため息がもれるような気がします。この箇所を開きながら死んだ目をしている人がいます。わたしたち自身が、きよい言葉、きよい行い、きよい思いを抱く人間に変えられねばならないと思うからです。でもできていない、できない、と感じます。すると、神の選びということが、わたしたちにはある重荷のように感じるようになるのです。

2.リーダーの資質
  わたしたちが忘れてならないことは、救いが神の贈り物だということです。わたしたちは心当たりのない贈り物をなかなか受け取ろうとしません。けれども、神の選びは決してつまらない贈り物ではありません。神は、わたしたちをただ愛してこの場所に招いてくださいました。これがすべてで、これ以上に重要なことはありません。神が、わたしたちをただ愛してくださっているので、その愛によってわたしたち自身が、「愛、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制」に押し出されることもあります(、、、、、、、)「義の果を結ばしめ」られることもあります。でも、わたしたちがいつもそういられるとは限りません。わたしたちがいつもよい者でいられないことは、神がだれよりもよくご存知です。わたしたちは自らの弱さを知れば知るほどに、思います。神の憐れみのなんと深いことか、と。わたしたちが人としてどのような高みに上りつめようとも、神はわたしたちを愛されます。たとえどん底に沈もうとも、わたしたちを愛して、ご自分のたしかなご計画のうちに導いてくださるのです。

  アブラハムを呼び出し、イスラエルを選ばれた神は、民の中に指導者をお立てになります。今日、ご一緒に聞いています旧約聖書の申命記は、イスラエルの指導者として立てられたモーセによる説教です。モーセは、旧約聖書でもっとも偉大な指導者です。モーセは、エジプトの地で430年もの間奴隷状態にあったイスラエルの民を導き出しました。そして重要なことは、エジプトから脱出して荒れ野をさまよい歩く民の先導者となったことです。この荒れ野の旅の途上で、幾度となく神に背き、反抗する民を執り成したのはモーセでした。モーセは、神の言葉を取り次ぎ、民のために執り成す預言者として召されました。民が罪のために「二度と…死ぬことのないように」(16節)、イスラエルの罪の弁護人として神と民との間に立てられた預言者でした。

  震災と原発事故から1年が経って、政権が交代したときのことを思い出します。集会室で話をしていたときに、ある方が「日本にもモーセのようなリーダーが必要だ」とおっしゃいました。「モーセのようなリーダー」というときに、皆さんはどのようなモーセ像を思い浮かべるでしょうか。聖書は、モーセについてこのように伝えています。「モーセという人はこの地上のだれにもまさって謙遜であった」(民12:3)。正直で謙遜だったという点で、モーセは優れていました。けれども、世の価値基準からすれば、謙遜や正直者であることがどれほど求められているでしょうか。「謙遜」と言われてもややアピールに欠きます。謙遜であるよりは前に出る人の方が、生産性があるように感じます。多少人をあざむいてでも雄弁に語って多くの支持を得ることの方が重要なこととされています。モーセは、「謙遜」なのか事実なのか、自分は口下手だと訴えています(出4:10)。彼は、口下手なのに、神の言葉を取り次ぐリーダーに召されたのです。

3.あなたの中から
  大声で雄弁であることは求められていません。真実を告げる預言者であるか。この問いは、説教者にとってもっとも厳しい問いのひとつです。真実を語るということは、語るように生きるということでもあるからです。聖書が示している真実を語る預言者は、人々から好意を受けるどころか、反感を買いました。語るべき内容がどんなに厳しいものであっても、語り続けなければなりません。預言者は孤独です。預言者は、しかし、飽くまで民の中の一人として語っています。共同体の一員として、民に向かって語り、神に執り成しました。モーセは民に向かってこのように語りかけます。「あなたの神、主はあなたの中から(、、、、、、、)あなたの同胞の中から(、、、、、、、、、、)、わたしのような預言者を立てられる。あなたたちは彼に聞き従わねばならない」(15節)と。

  律法が重んじられれば重んじられるほど、モーセは雲の上の存在となっていきました。古代教会で教材として用いられていたという文書に、モーセは神と人々から愛され、天使と同じ栄光を受けたと伝えられています(シラ書45:1〜2)。後の世代の者にとってモーセは、究極の預言者であり、別格の存在でした。実際に申命記の最後は、次のような言葉で閉じられています。「イスラエルには、再びモーセのような預言者は現れなかった」(申34:10)。モーセのように「主が顔と顔を合わせて」語り合った預言者は、他にはいなかったと言います。

  しかし、モーセ自身は、別の場面でこのようにも言っています。「わたしは、主が霊を授けて、主の民すべてが預言者になればよいと切望している」(民11:29)と。ここで言われているのは、たった一人の注目すべき預言者についてではありません。モーセのような、でもモーセとは別のだれか、その他の預言者についてです。さらに言えば、これから幾世代にも渡って起こされるであろう無名の預言者たちのことです。信仰共同体にとって幸いなことは、最強に弁の立つ唯一の説教者を持っていることではありません。共同体の一人ひとりが、自分の口から語り始めることです。

  「いや、でも、わたしは違います」と言うでしょうか。主イエス・キリストの使徒ペトロは、漁師であったのに、神の言葉を語り始めました。彼は「無学な普通の人」(使4:13)であったのに、今日のこの申命記のテキストを、大胆に説教しています。ペトロの説教によれば、申命記に示されたこの待望のモーセは、主イエスにおいて成就しました。主イエスは、たしかに唯一無二の存在です。しかし、主イエスご自身もまた「この人は大工の息子ではないか」(マタ13:55)と言われた預言者でした。主がわたしたちと何も違わない共同体の一員となられたからです。神は、わたしたちをお愛しになり、わたしたちを救う計画をお持ちです。救いのご計画のために、外からではなく、わたしたちの中から預言者を立てられます。わたしたちは、その一人として招かれたのです。


祈り


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          いわき きょうかい
日本キリスト教団 磐 城 教 会
牧師 上竹 裕子
更新:2016.11.15

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