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待降節第1主日 ≪主の来臨の希望≫
礼拝説教抄録

日本キリスト教団磐城教会 2016年11月27日
1 アモツの子イザヤが、ユダとエルサレムについて幻に見たこと。
2 終わりの日に
 主の神殿の山は、山々の頭として堅く立ち
 どの峰よりも高くそびえる。
 国々はこぞって大河のようにそこに向かい
3 多くの民が来て言う。
 「主の山に登り、ヤコブの神の家に行こう。
 主はわたしたちに道を示される。
 わたしたちはその道を歩もう」と。
 主の教えはシオンから
 御言葉はエルサレムから出る。
4 主は国々の争いを裁き、多くの民を戒められる。
 彼らは剣を打ち直して鋤とし
 槍を打ち直して鎌とする。
 国は国に向かって剣を上げず
 もはや戦うことを学ばない。
5 ヤコブの家よ、主の光の中を歩もう。
イザヤ書 2章1〜5節
 36「その日、その時は、だれも知らない。天使たちも子も知らない。ただ、父だけがご存じである。37人の子が来るのは、ノアの時と同じだからである。38洪水になる前は、ノアが箱舟に入るその日まで、人々は食べたり飲んだり、めとったり嫁いだりしていた。39そして、洪水が襲って来て一人残らずさらうまで、何も気がつかなかった。人の子が来る場合も、このようである。40そのとき、畑に二人の男がいれば、一人は連れて行かれ、もう一人は残される。41二人の女が臼をひいていれば、一人は連れて行かれ、もう一人は残される。42だから、目を覚ましていなさい。いつの日、自分の主が帰って来られるのか、あなたがたには分からないからである。43このことをわきまえていなさい。家の主人は、泥棒が夜のいつごろやって来るかを知っていたら、目を覚ましていて、みすみす自分の家に押し入らせはしないだろう。44だから、あなたがたも用意していなさい。人の子は思いがけない時に来るからである。」
マタイによる 福音書24章36〜44節
1.預言者が告げた希望
  教会の暦では、クリスマスに向かうアドヴェントの期節を迎え、新たな一年の歩みが始まります。アドヴェントAdventusという言葉は、ラテン語で「到来」という意味を持ちます。救い主イエス・キリストの到来を示します。2千年前にベツレヘムに来られたキリストは、世の終わりに再び到来されることを約束されました。それゆえにアドヴェントは、古くから2つの「到来」に備えるときとして守られてきました。このアドヴェントの期節は、クリスマスに備える喜びのときとされています。しかし元来は、祈りと断食の中でキリストの再臨への準備をするときです。聖壇は、アドヴェントカラーの紫に変わりました。紫は、悔い改めの色であり、悲しみの色です。夜の色です。聖壇のアドヴェント・クランツの紫のろうそくに火を灯しました。これから4週間かけて1本ずつ灯を増やしていきます。アドヴェント・クランツの第一のろうそくは、「預言者のろうそく」と呼ばれます。別名では、「希望」という名のろうそくです。この日、教会は、旧約聖書を開き、預言者の告げる希望のみ言葉を聞きます。

  預言者というのは、文字通り、神の言葉を預かる者です。預言者たちは、神から直接語りかけを聞くばかりでなく、神がお与えになる「幻」(2節)を見ました。「幻」(ハーゾーン)という言葉は、「見る」(ハーザー)という動詞に由来する言葉です。「幻」は「見る言葉」とも言い替えることができます。神の言葉は、聞くばかりでなく見るものでもあるのです。預言者たちは、しばしば、神の言葉を見ました。耳で知覚するか、目で知覚するかの違いは重要ではありませんでした。重要なことは、人間の内面から来る願望や妄想ではなく、外から与えられたものであるということです。

  宗教改革以来、それまでの視覚型の礼拝は、聴覚中心の礼拝へと変わりました。聖画や聖像の取り除かれた礼拝堂で、人々の黙想と祈りを助けたのは、多彩な礼拝音楽でした。わたしたちの教会の礼拝に出席されたカトリックの信徒の方がおっしゃいました。「驚きました。プロテスタント教会は、こんなに複雑な讃美歌を何曲も歌うのですね」と。わたしたちは普通のことと思っていますが、言われてみればたしかにそうかもしれません。オルガンの音を耳にするとき、讃美歌を口にするとき、目には見えない神と出会う空間が生まれます。ここで聞かれる言葉や音楽の多くは、ただわたしたちの鼓膜を刺激するというものではなく、わたしたちの心を動かし新しいイメージを生み出すものとなっているのです。

  聖書において、「聞く」という言葉は、キーワードです。「聞く」ということは、ただ聞いて記憶するということではなく、豊かにイメージすることです。このイメージは、わたしたちの向きを変え、わたしたちを突き動かす力を持っています。わたしたちは死んだ言葉を聞いているのではなく、生きた言葉を聞いているからです。

2.終わりの日に
  旧約聖書の預言者イザヤは、エルサレムへと巡礼するおびただしい数の人々を見ています。人々はこぞって、神殿のある山エルサレムに向かっています。神に招かれたすべての人が、巡礼の道に連なります。イザヤは、見た言葉を語ります。「終わりの日に 主の神殿の山は、山々の頭として堅く立ち どの峰よりも高くそびえる」(2節)と。旧約の民が待ち望む「終わりの日」は、神が救いを完成させられるときです。

  「終わり」(アハリース)という言葉は、字義通りには「後ろ」を意味します。聖書のヘブライ的な感覚では、未来は後ろにあります。わたしたち現代人の感覚では、未来は前にあります。未来を見つめながら、過去を背にして前に進んで行きます。けれども、ユダヤ人にとっては、まず過去が前にあります。これはよくボートを漕ぐ人にたとえられます。ボートを漕ぐ人は、進行方向とは逆の過去を見ながら、後ろに広がる未来へと漕いでいくのです。現代人の感覚では、進行方向に背を向けるなんて危ないと思います。でも、彼らにとっては、過去を見つめることこそが未来を拓くのです。旧約聖書の初め、神の天地創造から最初の人アダムとエバの物語、ノアの物語、そしてアブラハム、イサク、ヤコブの物語、さらにモーセの伝承に耳を傾けます。過去を前にしっかりと見つめることで、自らの漕ぐべき方向を知ることができるのです。

  けれども、過去の伝承だけを見ることは、しばしば人々の漕ぎ方を硬直させました。過去の歴史の延長線上に、ただ未来があるというのではありません。人々は、歴史を平板化して、過去の伝承に依存したまま、現状を見ることをせずにいました。わたしたち自身は、どこを見つめて漕いでいるでしょうか。わたしたちもまた、限りある時間の中で、過去から未来へと生きています。この中で、ただ右肩上がりの時間の延長線上に、ぼんやりと「終わりの日」を考えています。このようなわたしたちの間で、神はイザヤに将来の「終わりの日」の幻を見せられたのです。イザヤの預言した「終わりの日」は、例えば「12月31日に地球は滅びます」とかといった終わりの「予言」のようなものとはまったく異質のものです。この「日」は、時計が計ることのできる24時間の「一日」ではなく、夜に対する「日」を指します。闇に対する「光」です。神が、闇に介入される決定的なときです。神が来られるときです。わたしたちが「終わりの日」に備えるのは、神が来られるときだからです。

  主イエス・キリストは、ご自分が来られる「終わりの日」について、前もって次のようにお教えになりました。「その日、その時はだれも知らない。ただ父がけがご存じである」(マタ24:36)と。そしてこう言われました。「目を覚ましていなさい」(マタ24:42)。「あなたがたも用意していなさい。人の子は思いがけない時に来る」(マタ24:44)と。

3.平和のヴィジョン
  神は、イザヤに「終わりの日」の幻をお与えになります。それはエルサレムへの巡礼のヴィジョンです。この日、すべての人が、まことの神に出会う霊的な場所へと巡礼に繰り出していきます。「終わりの日に 主の神殿の山は、山々の頭として堅く立ち どの峰よりも高くそびえる。国々はこぞって大河のようにそこに向かい」(2節)、諸国の民が巡礼へと出発します。「主の山に登り、ヤコブの神の家に行こう。…わたしたちはその道を歩もう」(3節)と語り合いながら。「主の山」エルサレムは、海抜800メートルにも満たない高台です。実際には他の山々の方が高いのです。例えば、ヘルモン山やカルメル山などの方がずっと高く、悠然とそびえ立っているはずです。エルサレムの高さは、標高の高さではないのです。エルサレムは、霊的な場所として山々の頭とされるといいます。

  イザヤは、さらにその日のヴィジョンを見ていています。そのときは、「主は国々の争いを裁き、多くの民を戒められる。彼らは剣を打ち直して鋤とし 槍を打ち直して釜とする。国は国に向かって剣を上げず もはや戦うことを学ばない」(4節)、と語られます。「もはや戦うことを学ばない」ことは、長い間、実現されずにきています。わたしたちが、いちばんに願っているのに実現できずにいることです。わたしたちの社会は治安もよく、平和で勤勉なように見えますが、争い、戦いを学ぶ隠された仕組みを変えない限り、平和は実現しません。だれもが戦争を願わず、平和を願っています。しかし、この世界で平和を実現することは、理想ではあるけれども、漠然と難しいことのように思えます。

  イザヤが見た終わりの日の平和は、とても具体的なものでした。「彼らは剣を打ち直して鋤とし 槍を打ち直して釜とする」。この同じ幻を、預言者のミカも見ており(ミカ4:3)、おそらくこの言葉を聞いた共同体の多くの者が、平和の具体的なヴィジョンに目が開かれていったのです。殺すために資源を、道具を使うのではなく、生きるためにそれらを使うのです。殺すために手を動かすのではなく、共に生きるために手を動かすのです。わたしたちには、豊かな平和のイメージが与えられています。

  主がまだ来られていないのではないのです。主は、2千年前にたしかに来られました。セキュリティが行き届いた宮殿の中にではなく、無防備な貧しい家畜小屋に、主はお生まれになりました。この救い主には、標高のような高さはありません。むしろ低く、小さく、地味すぎて多くの人の目には留まりません。けれども、ここにたしかに真の平和のイメージが与えられています。救い主は、だれも想像しなかった小さな赤ん坊としてお生まれになりました。おびただしい人々が、わたしたちが、この方を礼拝する巡礼に連なります。この方を礼拝し、この方の光の中を歩むとき、わたしたちは真に平和をつくり出す者とされるのです。

祈り


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Tel/Fax 0246-21-2145
          いわき きょうかい
日本キリスト教団 磐 城 教 会
牧師 上竹 裕子
更新:2017.2.24

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