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待降節第4主日 ≪告知≫
礼拝説教抄録

日本キリスト教団磐城教会 2016年12月18日
 10主は更にアハズに向かって言われた。11「主なるあなたの神に、しるしを求めよ。深く陰府の方に、あるいは高く天の方に。」
 12しかし、アハズは言った。
 「わたしは求めない。
 主を試すようなことはしない。」
 13イザヤは言った。
 「ダビデの家よ聞け。
 あなたたちは人間に
   もどかしい思いをさせるだけでは足りず
 わたしの神にも、もどかしい思いをさせるのか。
14それゆえ、わたしの主が御自ら
   あなたたちにしるしを与えられる。
 見よ、おとめが身ごもって、男の子を産み
 その名をインマヌエルと呼ぶ。
イザヤ書 7章10〜14節
 18イエス・キリストの誕生の次第は次のようであった。母マリアはヨセフと婚約していたが、二人が一緒になる前に、聖霊によって身ごもっていることが明らかになった。19夫ヨセフは正しい人であったので、マリアのことを表ざたにするのを望まず、ひそかに縁を切ろうと決心した。20このように考えていると、主の天使が夢に現れて言った。「ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである。21マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである。」22 このすべてのことが起こったのは、主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった。
23「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。
 その名はインマヌエルと呼ばれる。」
この名は、「神は我々と共におられる」という意味である。
マタイによる福音書 1章18〜23節
1.父となるヨセフ

  あるときヨセフは、婚約中のマリアから思いも寄らないことを告げられます。マリアが、結婚前であるにもかかわらず、妊娠をしているらしいということです。マリアが「聖霊によって身ごもっている」(マタ1:18)と聞かされたヨセフの驚きは、どれほどのものであったでしょうか。

  一昨日が、幼稚園のクリスマスでした。クリスマスの祝会では、園児たちが恒例のページェントを行いました。マリア。ヨセフのセリフはありません。しいて言えば、身重のマリアを連れて宿さがしをするときに、マリアとふたりで「宿さがし」の歌を歌います。「トントントン。宿屋さん、どうか一晩泊めてください」と歌います。「どこのお部屋もいっぱいですよ」と宿屋に断られると、今度はまたヨセフとマリアが歌います。「困った、困った。どうしましょう」。これを繰り返し、最後の宿屋に辿り着いて、「馬小屋ならば、空いてます…」と言われ、家畜小屋に連れていかれるという場面です。ヨセフは、主イエスを迎える人々の中心にいながら、特にセリフはないのです。マタイによる福音書の描くクリスマス物語の中でも、ヨセフはこの中心にありながら、ひとことも言葉を発しません。ソロで歌うマリアとは対照的です。福音書は、ヨセフについてあまり多くを語りません。主イエスの誕生の物語以降には登場もしません。クリスマスの聖家族を主題とする多くの絵画の中でも、マリアとみ子イエスさまがいつも中心に光が当てられていて、ヨセフは目立たない存在です。イエスさまを抱くマリアの陰に控えめに写っています。クリスマスのシンボルのある解説によれば、ヨセフは裸のイエスさまをくるむために自らのズボンを脱いだ姿で描かれているそうです。ズボンを脱いでしまっては何か情けないような気もしますが、ヨセフは、み子の父親としてふさわしい十分なものを持っていなかったけれども、自分が持っているものでイエスさまを包んだのだ、と絵が物語っているのです。

  マリアから懐妊の話を聞いたときに、ヨセフはまず何を考えたでしょうか。 ショックだったと思いますし、いろいろなことが頭の中を巡っていったと思います。ひとりで悩み抜いた末に、マリアと「ひそかに縁を切ろうと決心し」(マタ1:19)ました。「正しい人」と言われるヨセフの正しさは、法的に正しいとか、一般的な意味で無難な判断力があった、とかということではありません。マリアが自分以外の男性とであるにしても幸せになるように、マリアとお腹の子どもの命が守られるように、ヨセフは自分が引くという決心を絞り出したのです。でも自分が引くと言っても、どうやって縁を切れるというのでしょうか。ナザレという田舎町で、すでに公然のカップルとなっているふたりが婚約を解消する理由を、どう取り繕って説明すればよいのでしょうか。簡単なことではありませんでした。性的な関係や法的なことがからむ非常にデリケートな問題でもあり、ヨセフは「正しい人」であるゆえに、ひとり悩み、閉口するしかありませんでした。

2.ダビデの子ヨセフ
  ヨセフは、沈黙して何も語りません。心の内にひそかに決めました。けれども、ヨセフは縁を切ろうと「決心した」と言って、強い言葉が語られたかと思えば、「そのように考えていると」とあります。決心してもスッキリしません。まだ迷っている、というわけではなくても、出口もなく、考え込んでしまいます。一度、心に決めたと思っても、何度も何度も、このことが頭をもたげてきて、ヨセフを悩ませます。安らかに眠ることができなくなっていました。

  そんな夜、うとうとしていたヨセフは、ある夢を見ます。夢の中で、天使が現れて言います。「ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである。マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。その子は自分の民を罪から救うからである」(マタ1:20〜21)と。

  天使は夢に現れて、呼びかけました。「ダビデの子ヨセフ」(マタ1:20)。この呼びかけは、ヨセフという人が何者であるのか、ヨセフにどのような使命があるのかを、明確に表しています。ヨセフは、「ダビデの子ヨセフ」なのです。ヨセフがこのことに自覚がなかったとは思えません。ヨセフはダビデの子孫であったので、自分の家系に救い主が生まれることは幼い頃から教えられ、ヨセフ自身信じてきたことでした。ヨセフは、繰り返し、繰り返し自分の系図をたどり、自らの家族の物語を聞いていました。

  今日、ご一緒に聞いていますマタイによる福音書は、救い主イエス・キリストの降誕物語から始まります。この冒頭には、系図が置かれています。系図は、お生まれになる主イエスが「アブラハムの子ダビデの子」(マタ1:1)であることを示しています。ある方がわたしにこうおっしゃいました。「ユダヤ人にとって系図がそんなに大事と言うけれど、実際には、主イエスはヨセフの血を継いでいないじゃないですか」と。主イエスが聖霊によって身ごもった子どもであるということは、父親のヨセフとは血のつながりがない子どもであるということです。ここで系図は意味を成さなくなるのでしょうか。そうではありません。ある解説者は、この系図について、男性中心の血が受け継がれていく系図に見えるけれども、実は名が受け継がれていく系図であると言っています。ここに登場する名は、神が壮大なご計画をもって歴史を導かれることを物語る、決定的な名前なのです。主イエスは、あの「アブラハムの子ダビデの子」であるヨセフの子としてお生まれになります。

  でも、そうであるならば、マリアとヨセフが結婚した後の方が、人々にとっては受け入れやすいですし、何よりもこの一家が危険にさらされずに済んだはずです。もし、結婚後の懐妊であるならば、処女降誕の出来事も、それほど大きな波紋を呼ばすに済んだでしょう。けれども、クリスマスの出来事は、不況和音としてやって来ました。神が歴史に介入されるということは、しかし、このようなことなのです。

3.ヨセフの手に委ねられた神
  神の介入は、驚き、恐れ、不安を与えるものです。ヨセフも、大いに戸惑いました。神のこの介入を、拒むこともできたのです。神は、この系図を自然な形でつなぐことをなさいませんでした。この系図をつなぐか否かを、ヨセフに委ねられたのです。神は、このようにしてクリスマスというご自分み業を、ただおひとりで完成されたのでなく、人間を巻き込まれます。しかも、恐れや苦悩に揺らぐひとりの人を用いて、このみ業を進められるのです。

  ヨセフは、神にこの大胆なご計画を持ちかけられたとき、ノーと言うこともできましたし、イエスと言うこともできました。マリアもそうでした。マリアこそ、身に覚えのない妊娠に、大きな戸惑いを覚えています。しかし、マリアは天使の言葉を信じて、イエスと応えました。「お言葉どおり、この身に成りますように」(ルカ1:38)と答えました。マリアは、神のご計画を受け入れました。ただ受け入たのです。マリアの示した従順は、もっとも大切な信仰の態度です。

  では、ヨセフは何と答えたのでしょうか? ヨセフは無言です。ヨセフは、喜び勇んでというよりは悩み苦しみながら、神の救いのご計画に従いました。ヨセフの在り方は、しかし、ただただ受け入れるというマリアの従順とは異なるものです。ヨセフは、「お言葉どおり、この身になりますように」と言ったのではありませんでした。彼は、お言葉を信じて、行う人となったのです。

  ヨセフは何も語りません。しかし、行動を起こします。紀元前8世紀の預言者イザヤは、かつて神の言葉を告げて言いました。「見よ、おとめが身ごもって男の子を産み その名をインマヌエルと呼ぶ」(イザ7:14)。ヨセフが幼い頃から繰り返し聞き、親しんできた預言者の言葉です。このみ言葉は今、ヨセフ自身の手に委ねられたのです。ヨセフは、このみ言葉を、聞かなかったこととして、知らなかったこととしてその手で握りつぶすこともできます。神は、大胆にもヨセフの自由意志に余りにも大きなものを委ねられました。もし、ヨセフがマリアを迎え入れなければ、マリアとそのお腹にいる子どもが、共同体の一員として生きいくことは難しかったでしょう。

  けれども、ヨセフは拒みませんでした。ヨセフは、静かに天使の言葉に耳を傾け、マリアとそのお腹にいる子どもを迎え入れることとしたのです。ヨセフは夢から目覚めると、身を起こして出かけて行きます。他のだれでもない、自分自身のごく近くに迫っている神のみ言葉を迎えに行くために、ヨセフは走り出します。こうして、かつて預言者を通して告げられていたみ言葉は実現しました。「『見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。』この名は、『神は我々と共におられる』という意味である」(マタ1:23)。神さまが共にいてくださるというかけがえのないしるしが、ヨセフとマリアのもとにやって来ます。神は、今、わたしたち自身のごく近くにいらっしゃるのです。

祈り


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牧師 上竹 裕子
更新:2017.2.24

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