印刷用PDF(A4版)
降誕日 ≪キリストの降誕≫
礼拝説教抄録

日本キリスト教団磐城教会 2016年12月25日
1 闇の中を歩む民は、大いなる光を見
 死の陰の地に住む者の上に、光が輝いた。

5 ひとりのみどりごがわたしたちのために生まれた。
 ひとりの男の子がわたしたちに与えられた。
 権威が彼の肩にある。
 その名は、「驚くべき指導者、力ある神
 永遠の父、平和の君」と唱えられる。
6 ダビデの王座とその王国に権威は増し
 平和は絶えることがない。
 王国は正義と恵みの業によって
 今もそしてとこしえに、立てられ支えられる。
 万軍の主の熱意がこれを成し遂げる。
イザヤ書 9章1、5〜6節
 1初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。2この言は、初めに神と共にあった。3万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。4言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。5光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。
 6神から遣わされた一人の人がいた。その名はヨハネである。7彼は証しをするために来た。光について証しをするため、また、すべての人が彼によって信じるようになるためである。8彼は光ではなく、光について証しをするために来た。9その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らすのである。10言は世にあった。世は言によって成ったが、世は言を認めなかった。11言は、自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった。12しかし、言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた。13この人々は、血によってではなく、肉の欲によってではなく、人の欲によってでもなく、神によって生まれたのである。
 14言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。
ヨハネによる福音書 1章1〜14節
1.クリスマスのシンボル
  皆さんが、クリスマスに思い出すことは何であるでしょうか。わたしの場合、決まって思い出すことがあります。子ども時代は、教会にはまだ行っていませんでした。でも、そんなわたしにも「クリスマス」がありました。毎年、クリスマス・イヴには、父がいつもとは違う特別なカップアイスを持って、仕事から帰って来ました。たぶん家族でいちばんアイスが好きなのは、父なんじゃないかと思うのですが、クリスマスにはケーキではなくアイスを食べる。そういう家庭でした。それで、アイスそのものがおいしかったのかはあまり覚えていないのですが、アイスを入れる発泡スチロールの大きな箱に入ったドライアイスで兄と遊んだことを、よく覚えています。クリスマスになると、昔、父がドライアイスを持って来てくれたな、そんなことが楽しかったのだな、などと妙に思い出します。

  ある人は言いました。クリスマスに多くの人が子ども時代のことを思い出している、と。でもそれは、単に懐かしさにひたるということではなく、おそらく、子ども時代の「わくわくする」感じを、このときばかりは、わたしたちすべての者が持つことができるということです。

  クリスマスをモティーフとするが物語がたくさんあります。クリスマスの歌がたくさん生まれました。クリスマスを伝えるためには、学術的な言葉よりもシンボルの方がふさわしい、と言った人がいます。クリスマスのシンボルというのは、例えば、アドヴェントクランツの上に飾っているこの白い羽をご覧ください。クリスマスに登場する天使をあらわしています。

  クランツの上の星(スターアニス)も、クリスマスのもっともポピュラーなシンボルのひとつです。この星を見るだけで、わたしたちはクリスマスの物語に誘われます。クリスマスに、夜空に輝いた星がとても重要な役割を担いました。占星術の学者たちが、その星を見て、その星に導かれて、主イエスを訪ねました。古代教会の人たちは、この星をイエス・キリストご自身に重ねました。聖書に次のような言葉があります。「夜が明け、明けの明星があなたがたの心の中に昇る」(U ペト1:19)。クリスマスに主イエスが来てくださったことで、わたしたちの暗い夜空に、星が輝き出しました。それは、新しい朝が来る兆し。「明けの明星」です。だから、クリスマスツリーのトップには、主イエスを示す星を飾ります。

  昨日、こどもクリスマスで、クリスマスビンゴというゲームをしました。聖書のクリスマス物語に登場する人物やもの、地名などを、それぞれが9つずつ書き出して、ビンゴをしました。このゲームに参加した4才の女の子は、聖書のクリスマス物語をよく知っているので、文字は書けないのですが、ビンゴのマスの中に9つのシンボリックな絵を描きました。シンボルは、小さな子どもにも大人にも、わたしたち日本人にも外国人にも、すべての人に共通の言語なのです。

2.神は子どもとなった
  しかし、今日ご一緒に聞いているヨハネ福音書1章は、きわめて神学的な言葉でクリスマスを語る箇所です。天使も羊飼いも、博士も登場しません。クリスマスという出来事を、ひとことでこう言い表しています。「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた」(ヨハ1:14)と。

  このヨハネ福音書の1章で「言(ことば)」と言われているのは、主イエス・キリストのことです。神の言である主イエスが、わたしたち人間と同じ「肉」をまとってこの地上に来られた、と語ります。ヨハネ福音書は、単に「人となった」とは言わずに、「肉となった」と語っているのです。

  「肉」とは、何でしょうか。神について語るには、ふさわしくない言葉です。わたしたち人間の現実をもっともよく表した言葉のひとつとも言えます。「肉」は、わたしたちに人間の限界を覚えさせるものです。肉体は、痛みや疲れを覚えるものです。時に、誘惑にも遭います。「肉」は、わたしたち人間の脆さや弱さをあらわします。神を「肉」と結びつけてよいでしょうか。しかし、神御自らが、この肉の中に身をゆだねられたのです。

  比類のない神の言、主イエス・キリストが肉となられたということは、もっとも人間らしい姿、幼い子どもの姿をとられたということです。子どもというのは、裸で走り回ったりします。大人にはそんなことはできません。もっともそんなことをすれば捕まってしまいますが。子どもが、裸で走り回れるのは恥ずかしさを知らないからです。神がおつくりになった最初の人を思い出します。最初の人アダムとエバは、初めは裸でしたが、恥ずかしくはなかったのです。けれども、食べてはいけないと言われていた禁断の果実を食べて罪が芽生えると、目が開けて自分たちが裸であると自覚します。たちまちに恥ずかしくなって体を隠します。やましさがあったので、神から隠れました。

  人はいつから恥ずかしさ感じるようになるのだろう。いつから素ではいられなくなるのだろう。服を着ないで走り回る子どもを見て、友人がつぶやきました。いつからなのでしょうか。子どもから成長して、身体と心に変化がおとずれる思春期の頃でしょうか。

  以前、障がい者のある講演会で、講師がこのように言っていました。「赤ん坊というのは、話すこともできない。食べることもできない。歩くこともできない。できないづくし。重度の障がい者だ」と。この講師の言葉を聞いて、真っ先に思い浮かんだのは、クリスマスの出来事でした。そうであるならば、小さな赤ん坊として来られた主イエスも障がいを負われたということでしょうか。 ちょっと待ってください! 聖書には、「神にできないことは何一つない」(ルカ1:37)と書かれています。その全能の神のみ子ですよ?

  でも、よく考えてみたら、たしかにそうかもしれません。

3.皆がクリスマスの子どもに
  マリアから生まれてきた男の子はまったく母乳を必要としない子だったとか、おしめを自分で取り換えることのできる子だったとか、そんな話は聞いたことがありません。歯が生える前から5か国語を話せたとか、そういった主イエスの超人的なエピソードは、クリスマス物語の中には一切出てきません。主イエスは、本当にわたしたちと同じ赤ん坊として、この世界に来られたのです。主は、文句も言わずに飼い葉桶の中に横たわりました。文句など言えませんでした。ただひとことも語れない、無力で、無防備な赤ん坊として来られたのですから。飼い葉桶の中には、ただ人の子のありのままの弱さがありました。

  家族は、この子どものためにあれこれ世話を焼かねばなりませんでした。世話を焼くのではなく、世話を焼かれるのです。このような神が他にあるでしょうか。しかし、この小さな赤ん坊の姿に気づかされることは、わたしたち人間は皆このような者であるのであって、これ以外の者ではありえない、ということです。「赤ん坊というのは…できないづくしだ」と言われた先生が言いたかったことは、それでよいのだ、ということです。たとえ何もできなくても、その子が愛されている、ということです。この子どもの姿に、わたしたち人間の本来の姿があります。

  わたしたちは、忙しさを感じると、つい子どもたちと向き合うことを後回しにしてしまいます。子どもに合わせず、手っ取り早く、子どもの方にこちらに合わせるよう強いることがあります。「もっと早く準備してくれないと」とか、「ほら、泣いてばかりいないで」とか、「うるさい! もっと静かにしていなさい!」とか、子どもに対して、大人のようにふるまうよう求めることがあります。自分には、そのようなことはまったく関係ない、と言える人があるでしょうか。

  わたしたちが、忙しさの中で向き合うことを後回しにしてしまう「子ども」とは、わたしたち自身の中にいる自分の姿です。わたしたちが「早くしなさい」とか、「泣いてばかりいるな」とか、「静かにしなさい」と言う時、それは自分の中の子どもに対して言っているのです。わたしたちは、本当はもっと時間をかけなければならない自分の問題に、時間を惜しむことがあります。おいおいと泣くことがあってもいいのに、悲しみや寂しさ、自分の中にある負の感情を押し殺してしまうときがあります。自分の中が吹き荒れているときにも、「うるさい!」と言って、耳も傾けずに、無理に静めようとします。

  神の言が肉となったのは、神が小さな子どもとなられたのは、わたしたちが触れられないでいる部分に触れるためです。わたしたち自身が、神につくられた本来の姿を知るためです。クリスマスに子ども時代を取り戻すのは、わたしたちが古くさい自分にとどまらずに、新しい祝福された人生を歩み始める子どもとなるためです。このクリスマスから、わたしたちは、新しく歩み始めることができるのです。

祈り


〒970-8036 いわき市平谷川瀬字仲山町25
Tel/Fax 0246-21-2145
          いわき きょうかい
日本キリスト教団 磐 城 教 会
牧師 上竹 裕子
更新:2017.2.24

Copyright 2011-2013 IWAKI KYOUKAI All Rights Reserved.


inserted by FC2 system