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降誕節第2主日 ≪エジプト逃避≫
礼拝説教抄録

日本キリスト教団磐城教会 2017年1月1日
15主はこう言われる。
 ラマで声が聞こえる
 苦悩に満ちて嘆き、泣く声が。
 ラケルが息子たちのゆえに泣いている。
 彼女は慰めを拒む
 息子たちはもういないのだから。
16主はこう言われる。
 泣きやむがよい。
 目から涙をぬぐいなさい。
 あなたの苦しみは報いられる、と主は言われる。
 息子たちは敵の国から帰って来る。
17あなたの未来には希望がある、と主は言われる。
 息子たちは自分の国に帰って来る。
エレミヤ書 31章15〜17節
 13占星術の学者たちが帰って行くと、主の天使が夢でヨセフに現れて言った。「起きて、子供とその母親を連れて、エジプトに逃げ、わたしが告げるまで、そこにとどまっていなさい。ヘロデが、この子を探し出して殺そうとしている。」14ヨセフは起きて、夜のうちに幼子とその母を連れてエジプトへ去り、15ヘロデが死ぬまでそこにいた。それは、「わたしは、エジプトからわたしの子を呼び出した」と、主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった。

 16さて、ヘロデは占星術の学者たちにだまされたと知って、大いに怒った。そして、人を送り、学者たちに確かめておいた時期に基づいて、ベツレヘムとその周辺一帯にいた二歳以下の男の子を、一人残らず殺させた。17こうして、預言者エレミヤを通して言われていたことが実現した。
18「ラマで声が聞こえた。
 激しく嘆き悲しむ声だ。
 ラケルは子供たちのことで泣き、
 慰めてもらおうともしない、
 子供たちがもういないから。」

 19ヘロデが死ぬと、主の天使がエジプトにいるヨセフに夢で現れて、20言った。「起きて、子供とその母親を連れ、イスラエルの地に行きなさい。この子の命をねらっていた者どもは、死んでしまった。」21そこで、ヨセフは起きて、幼子とその母を連れて、イスラエルの地へ帰って来た。22しかし、アルケラオが父ヘロデの跡を継いでユダヤを支配していると聞き、そこに行くことを恐れた。ところが、夢でお告げがあったので、ガリラヤ地方に引きこもり、23ナザレという町に行って住んだ。「彼はナザレの人と呼ばれる」と、預言者たちを通して言われていたことが実現するためであった。
マタイによる福音書 2章13〜23節
1.新しい旅の始まり
  今年もクリスマスのよろこびのうちに新しい年を迎えました。「今年も新しい年を迎えた」というのは、少々おかしな言い方かもしれません。「今年も」というと、いつもと変わらず、例年どおり、といった感じがしますが、わたしたちが迎えた2017年は、まったく新しい、わたしたちのだれもが今までに経験したことのない年であるからです。たしかに、毎年同じ言葉であいさつし、毎年お餅やおせちなど同じものを食し、教会の方たちの会話を聞いていても「いかにこのお正月に太らないでいられるかだ」と、これまた毎年同じような話題に花を咲かせます。これが落ち着くということなのかもしれません。

  旧約聖書の詩人は歌いました。「かつてあったことは、これからもあり かつて起こったことは、これからも起こる。太陽の下、新しいものは何ひとつない。見よ、これこそ新しい、と言ってみても それもまた、永遠の昔からあり この時代の前にもあった」(コヘ1:9〜10)。ニヒルな見方をすれば、この年もまた新しいものなどひとつもない、同じことの繰り返しということになるでしょうか。わたしたち人間の営みに新しいことなどないのですから。いつも同じメニューだと飽きるので、同じ材料でも味つけを工夫するように、わたしたちは、せいぜい古いものを寄せ集めて違ったものに進化させることができるくらいです。けれども、神は違います。神は、何の材料もなしにまったく新しいものをお造りになります。

  聖書に次のような言葉があります。「キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた」(Uコリ5:17)。「これらはすべて神から出ること」(同5:18)だ、と聖書は語っています。神によらなければ、わたしたちが新しくされることはありません。逆のことを言えば、わたしたちがどんなに志を高くして努力してみても捨てきれなかった古い自分は、神によって、新しくしていただくことができるということです。

  クリスマスのみ子の到来と共に、夜明けの空に明けの明星が輝きました。み子キリストがわたしたちのうちにお生まれになり、古い年は過ぎ去って、新しい年が明けました。わたしたちは、み子によってまことの新しさの中を歩み始めます。それは喜ばしい始まりです。でも、この始まりは、実際には、喜ばしいこと、楽しいこと、よいことには見えない、という場合があります。クリスマスの旅の途上にある家族がそうでした。み子をその腕に抱いた母マリアと、父ヨセフは、新しい旅に出発しなければなりませんでした。それはヨセフの意志でも、マリアの意志でもありませんでした。主の天使が、夢で現れてヨセフにこう告げたのです。「起きて、子供とその母親を連れて、エジプトに逃げ、わたしが告げるまで、そこにとどまっていなさい。ヘロデが、この子を探し出して殺そうとしている」(マタ2:13)。ヨセフは、これを聞いて目を覚まし、まだ夜の明けぬうちに急いで出発しました。

2.クリスマスの中のヘロデ
  ヨセフとマリア、そして生まれて間もない主イエスが去ったベツレヘムに、間もなくして、幼児殺害の命令が下されます。ヘロデという人がどのような人物であったのかはよく知られています。すべてを自分の手中に置きたい人でした。自分で支配し、自分の思うようにコントロールしたい人。それがヘロデです。わたしたちが知っている冷酷な権力者です。このヘロデは、しかし、東方の学者たちの訪問を受けたとき、新しい王誕生の知らせを聞いて「不安を抱いた」(マタ2:3)と聖書は伝えています。生まれたばかりの幼子は、死の危険にさらされています。でも、実際に怯えているのは、ヘロデの方なのです。ものごとの容易さを表すときに、よく「赤子の手をひねるようなことだ」と言います。でも、その赤ん坊は、だれもひねることができなかった、触れることさえできなかったヘロデ大王の手をひねっています。指一本触れることなく。

  ヘロデは、自らの地位を揺るがす恐れがあれば、親類縁者、自身の息子たちに至るまで処刑を繰り返して、謀反の芽を摘み取ったと言われています。ヘロデの命令は徹底しています。新しい王の誕生の時期をたしかめ、2歳以下の男児の無差別殺戮を実行します。「一人残らず殺させた」(マタ2:16)と聖書は記しています。幼稚園のクリスマス・ページェント(降誕劇)では、東方の学者たちは登場しますが、ヘロデはカットされています。クリスマスが大好きな子どもたちに、まだ知らせていない物語があります。神のご計画に対する人間の恐れ、妬み、憎しみ、殺意…。人々の嘆きが、クリスマス物語の一部をなしています。

  いま、午後の祈り会では、「日本基督教団信仰告白」を学んでいます。わたしたちの教団の信仰告白は、最後に世々の教会と共に「使徒信条」を告白することによって閉じられます。わたしたちが日曜日ごとの礼拝の中で告白している「使徒信条」ですが、先週の祈り会では、この中の「ポンテオピラトのもとに苦しみを受け」という文言を、共に思い巡らせました。2016年最後の祈り会ですし、クリスマスの真っ最中なので、一つ前の文言、「(主は)聖霊によりてやどり、処女マリヤより生れ」で終わる方が、余韻がよかったように思いますが、主のご受難を憶える文言が当たりました。

  「使徒信条」は、クリスマスのみ子イエス・キリストの生誕から、即座に「ポンテオピラトのもとに苦しみを受け」と、主のご受難に言及しています。信条の中心に突如として登場するピラトの名前に、クリスマスの意味を改めて深く思い巡らすことができました。チェコのことわざに「彼は信条の中のピラトのように場違いな者である」というものがあるそうです。それを言うならば、クリスマスの中のヘロデも同じです。気づかされることは、主のご生涯は、初めから人間の思惑と策略の渦巻く中にあったということです。この道はヘロデからピラトへと通じています。

3.幼子を抱いて歩む新しい道
  主イエスが、この道をどのように進まれたかは注目すべきことです。主が行かれたのは、エジプトへの「逃避」の道でした。マタイ福音書において、直面する物事に立ち向かわずに「逃げる」こと、「退く」ことは(マタ4:12)、決して否定的な言葉ではなく、積極的なきっかけとされています。主は危機に直面して旅を終わらせるのではなく、逃避行に身をゆだねられます。ある人が旅に出るとき、その理由を尋ねる人にはいつもこう答えるのだと言いました。「わたしは、自分が何を避けようとするのかはよくわかるのだが、何を求めているのかはよくわからない」(モンテーニュ)。世界を旅するバックパッカーの多くが共感する言葉でしょう。大切なものが壊れてしまいそうな現実と直面したとき、到着点が見えないとしても、逃げて行ってよいのです。どこをうろつこうとも、主を、この腕に抱き続けることができるならば。

  クリスマスには、必ず歌うマニフィカートと呼ばれる歌があります。「わたしの魂は主をあがめ、わたしの霊は救い主である神をよろこびたたえます。身分の低い、この主のはしためにも 目をとめてくださったからです…」(ルカ1:47〜55)。ルカ福音書に記された力強いマリアの讃歌です。わたしたちの讃美歌集には、この母の歌を歌った讃美歌が6曲も収められています。一方、讃美歌集には収められないもうひとつの母の歌があります。イスラエルの母、ラケルの嘆きの歌です。「ラマで声が聞こえた。激しく嘆き悲しむ声だ。ラケルは子供たちのことで泣き、慰めてもらおうともしない、子供たちがもういないから」(マタ2:18)。無差別殺戮の事態は、ユダヤ全土を震撼させました。人々を恐怖に陥れました。ベツレヘムとその周辺では、子を亡くした母親の嘆き悲しむ声が響きます。でも、この場所でクリスマスの光が消えたのではありません。その小さな光は、暗闇の中に輝いています。

  今日は、ご一緒に「おやすみなさい」(272番『讃美歌21』)という讃美歌を歌いました。讃美歌集に50曲以上ある(アドヴェントから)クリスマスの歌の中で、ヘロデ大王が登場するのは、この「おやすみなさい」だけです。この歌は、厳しい逃避行の道の合間の、母のやさしい子守唄です。

♪おやすみなさい、かあさんの胸で。
 悲しみやわらぎ、心やすまる。
 こわがらないで、ヘロデのことを。
 この子守唄を 聞いておやすみ。
 アラル、アラメ アラル、アラメ…
 (「アラル、アラメ…」はあやし言葉)


  わたしたちは、クリスマスの幼子を抱いた旅の途上にあります。わたしたちの中で、古い王が力を振るっているとしても、神は、そのようなわたしたちの現実にもかかわらず、新しい王を生まれさせてくださいます。わたしたちのうちに、神が新しいいのちを創造されます。わたしたちの弱さと危うさの中に、神は、このいのちを生かす新しい道を備えてくださるのです。

祈り


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Tel/Fax 0246-21-2145
          いわき きょうかい
日本キリスト教団 磐 城 教 会
牧師 上竹 裕子
更新:2017.2.24

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