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降誕節第3主日 ≪イエスの洗礼≫
礼拝説教抄録

日本キリスト教団磐城教会 2017年1月8日
 1主はサムエルに言われた。「いつまであなたは、サウルのことを嘆くのか。わたしは、イスラエルを治める王位から彼を退けた。角に油を満たして出かけなさい。あなたをベツレヘムのエッサイのもとに遣わそう。わたしはその息子たちの中に、王となるべき者を見いだした。」2サムエルは言った。「どうしてわたしが行けましょうか。サウルが聞けばわたしを殺すでしょう。」主は言われた。「若い雌牛を引いて行き、『主にいけにえをささげるために来ました』と言い、3いけにえをささげるときになったら、エッサイを招きなさい。なすべきことは、そのときわたしが告げる。あなたは、わたしがそれと告げる者に油を注ぎなさい。」4サムエルは主が命じられたとおりにした。彼がベツレヘムに着くと、町の長老は不安げに出迎えて、尋ねた。「おいでくださったのは、平和なことのためでしょうか。」5「平和なことです。主にいけにえをささげに来ました。身を清めて、いけにえの会食に一緒に来てください。」
 サムエルはエッサイとその息子たちに身を清めさせ、いけにえの会食に彼らを招いた。6彼らがやって来ると、サムエルはエリアブに目を留め、彼こそ主の前に油を注がれる者だ、と思った。7しかし、主はサムエルに言われた。「容姿や背の高さに目を向けるな。わたしは彼を退ける。人間が見るようには見ない。人は目に映ることを見るが、主は心によって見る。」8エッサイはアビナダブを呼び、サムエルの前を通らせた。サムエルは言った。「この者をも主はお選びにならない。」9エッサイは次に、シャンマを通らせた。サムエルは言った。「この者をも主はお選びにならない。」10エッサイは七人の息子にサムエルの前を通らせたが、サムエルは彼に言った。「主はこれらの者をお選びにならない。」11サムエルはエッサイに尋ねた。「あなたの息子はこれだけですか。」「末の子が残っていますが、今、羊の番をしています」とエッサイが答えると、サムエルは言った。「人をやって、彼を連れて来させてください。その子がここに来ないうちは、食卓には着きません。」12エッサイは人をやって、その子を連れて来させた。彼は血色が良く、目は美しく、姿も立派であった。主は言われた。「立って彼に油を注ぎなさい。これがその人だ。」13サムエルは油の入った角を取り出し、兄弟たちの中で彼に油を注いだ。
サムエル記上 16章1〜13節a
 13そのとき、イエスが、ガリラヤからヨルダン川のヨハネのところへ来られた。彼から洗礼を受けるためである。14ところが、ヨハネは、それを思いとどまらせようとして言った。「わたしこそ、あなたから洗礼を受けるべきなのに、あなたが、わたしのところへ来られたのですか。」15しかし、イエスはお答えになった。「今は、止めないでほしい。正しいことをすべて行うのは、我々にふさわしいことです。」そこで、ヨハネはイエスの言われるとおりにした。16イエスは洗礼を受けると、すぐ水の中から上がられた。そのとき、天がイエスに向かって開いた。イエスは、神の霊が鳩のように御自分の上に降って来るのを御覧になった。17そのとき、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」と言う声が、天から聞こえた。
マタイによる福音書 3章13〜17節
1.洗礼―神の子の戴冠式
  教会の暦では、一昨日(6日)に「エピファニー(公現日)」を迎えました。「エピファニーEpiphany」は、主の顕現(現れること)を意味します。クリスマスの星は、一部の人のプライベートな場所にではなく、世界に輝き出でました。イエス・キリストは、長い間救い主の到来を待ち望んできた旧約の民ばかりでなく、民族や宗教を超えたすべての人のために来られました。主イエスを最初に礼拝したのは、東方から来た占星術学者たちだったと伝えられています。彼らは3つの非常に高価な贈り物を携えていました。主イエスの前に進み出て、黄金、乳香、没薬をささげます(マタ2:11)。贈り物のうち、医薬である「没薬」は、主イエスがまことの医者であることを表しています。「乳香」は、礼拝で香をたく祭司の務めを表し、主イエスがまことの祭司であることを象徴しています。「黄金」は、主イエスがまことの王であることを象徴しています。

  クリスマスにお生まれになった主イエスは、故郷のナザレで両親のもとでお育ちになりました。けれども、マタイ福音書は、他の福音書と同様に、主イエスの子ども時代のことなどを何も伝えていません(ルカ福音書には主イエスの幼少時代の記述がわずかにあります)。クリスマスの記事の後、主イエスが登場するのは、今日の洗礼の場面です。その公生涯の初めに、主は洗礼をお受けになりました。この洗礼の場面は、しばしば、主イエスの王としての戴冠式とも呼ばれます。東方の学者たちは、飼い葉桶の中の主イエスに、王としてふさわしい贈り物をささげました。今や主イエスは、ヨルダン川で王の冠を受けられるのです。主が洗礼を受けられたとき、天から声が響きました。「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」(マタ3:17)。この言葉は、今日、ご一緒に交読した詩編2編の言葉に重なります。「主はわたしに告げられた『お前はわたしの子 今日、わたしはお前を生んだ』」(詩2:7)という、王の戴冠式の詩編です。この戴冠の言葉によって、初めて主イエスが神の子になられた、ということではありません。戴冠式は、そのひとがすでに王の家の者であるから、王にすると公に宣言される儀式です。これから始まる主イエスの宣教は、革命家の型破りな運動として語られることも多いのですが、その宣教の初めに洗礼という公のセレモニーがあったということは興味深いことです。教会の伝統の中で、エピファニーの後の最初の日曜日であるこの日は、「主の洗礼の主日」と呼ばれています。この日、キリスト者は、自らの洗礼の出来事を想い起こします。同時に、古代から教会に託されてきた洗礼という儀式の秘められた意味を思い巡らせます。

2.洗礼―神の意志の成就
  主イエスは、ヨルダン川で洗礼を授けていた洗礼者ヨハネのところに来られます。ヨハネは困惑して言います。「わたしこそ、あなたから洗礼を受けるべきなのに、あなたがわたしのところへ来られたのですか」(マタ3:14)と。ヨハネは、主イエスの親類で半年前に生まれたと言われています。ヨハネは母エリサベトの胎内にあったときに、同じように母マリアの胎内にある主イエスの訪問を受けました(ルカ1:39〜45)。実際には、懐妊したマリアがエリサベトの家を訪問したという場面です。マリアのあいさつを聞いたとき、エリサベトのお腹のヨハネがよろこび踊ったと伝えられています。ヨハネは、母の胎にあるときから、主イエスを指し示し、主の道を備える預言者でした。ヨハネは、自分に従って来たたくさんの人たちに向かってこう言います。「わたしは、悔い改めに導くために、あなたたちに水で洗礼を授けているが、わたしの後から来る方は、わたしよりも優れておられる。わたしはその履物をお脱がせする値打もない」(マタ3:11)。ヨハネは徹底して、主の前に自らを低くしました。そうであるので、主イエスが洗礼を受けるためにヨハネのところに来られたことは、彼を当惑させました。「わたしこそ、あなたから洗礼を受けるべきなのに…」

  主イエスは、ヨハネの言葉を受け入れながらも、こう言われます。「正しいことをすべて行うのは、我々にふさわしいことです」(マタ3:15)と。主が正しいことを「すべて行う」と言われた言葉は、「すべて成就する」するという意味のマタイが好んで用いる特殊な言葉です。「成就する」、「実現する」というこの言葉は、この福音書の中では、通常は旧約聖書の言葉の成就を示す場面に使われます。マタイは、この言葉を用いて、主イエス・キリストの一つ一つの出来事が聖書の成就であることを伝えました。神の言葉、神の意志が実現した、と繰り返し語っています。主イエスは、ヨハネに言われました。「正しいことをすべて行うのは、我々にふさわしいことです」「正しいことをすべて行う」こと、つまり神のご意志を成就することが「わたし」(主)と「あなた」(ヨハネ)の間で求められる、とおっしゃるのです。このことで、主は、洗礼がどのようなことなのかを御自らお示しになりました。洗礼は、「わたし」(主)と「あなた」(人間)の間で、神のご意志が遂行されることなのです。

3.洗礼―わたしの愛する子よ
  主イエス・キリストのご生涯を描いたマタイ福音書は、主の十字架と復活の物語をもって閉じられています。その最後に、復活の主イエスは弟子たちにこのように言われました。「あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」(マタ28:19〜20)。これが、マタイ福音書の最後の言葉です。主御自らが、このようにお命じになりました。「すべての民…に父と子と聖霊の名によって洗礼を授け(なさい)」と。これが、地上を去られる主イエスの最後のお言葉でした。だから、洗礼が重要でないわけはありません。それゆえに、洗礼は教会のもっとも重要で中心的なことがらのひとつです。

  しかし、です。理性的に考えて、どうしてそこまで洗礼が大切であるのでしょうか。洗礼が、わたしたちにとってどんな意味を持つと言うのでしょう。この儀式に数滴の水をたらすことで、教会はいったい何をしているのでしょうか。これらは、いつもわたしたちが洗礼について感じている問いです。このような問いは、18世紀にヨーロッパで広がった啓蒙主義運動の強い影響を受けている、とある人は指摘します。「洗礼がわたしにとって(、、、、、、、)どのような意味があるのか」。このように問うとき、洗礼が神の行為ではなく、「わたしの感情」、「わたしの態度」、「わたしの行為」を問題としたものになっていると言うのです。しかし、本質的に重要なことは、わたしたちが洗礼によって何をしているかではなくて、「わたしたちに対していったい洗礼は何をしているのか(、、、、、、、、、、、)」(ウィリアム・ウィリモン)である、と。

  アメリカの改革派教会(RCA)から日本に遣わされている宣教師夫妻が次のような話をしてくださったことがあります。3年に一度母国に戻って、田舎から都市部まで多くのRCAの支援教会で伝道報告をするそうです。この時に、宣教活動のための資金の献金を呼びかけています。伝道報告の後である人が近づいて来て言ったそうです。「これほど長い間、日本という国で宣教をしているのに、日本のキリスト者人口は1パーセントに満たないじゃありませんか。日本には日本の神という土着の信仰があって、日本人はすでに満たされているし、平和は保たれているでしょう。アメリカの宗教を押しつける必要はないと思うの」と。宣教師はその人にこう答えたそうです。「キリストは、いつからアメリカの宗教になったのですか。いつから、神はあなただけの神になったのでしょうか」。でも、宣教師の先生は、多くの日本人キリスト者が、このアメリカ人と同じように考えているのだと指摘しています。神は狭い世界に押し込められ、人々の間では「わたしの信仰」、「わたしの神」となっている、と。伝道は「キリスト教の押し売り」と思われている、と。

  主は言われました。「すべての民…に父と子と聖霊の名によって洗礼を授け(なさい)」と。こう言われるとき、主は人間の行いについて語っているのではないのです。神の行為を遂行するものとなりなさい、と言われるのです。なぜこうも神は洗礼を必要とされるのでしょうか。わたしたちが、これ以外のことで自らが何者であるかを悟ることはできないからです。それゆえ主が、わたしたちと等しい場所に降りて来られ、御自ら洗礼を受ける者の列に加わられたのです。洗礼は、すでに神の子である者が、神の子であると公に宣言される戴冠式です。この冠は、すべての人に備えられています。わたしたちは何者でしょうか。神に愛される子どもです。主が開かれた天から、わたしたちの上に声が響きます。「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」と呼ばれる神の声が。

祈り


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          いわき きょうかい
日本キリスト教団 磐 城 教 会
牧師 上竹 裕子
更新:2017.2.24

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