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降誕節第4主日 ≪最初の弟子たち≫
礼拝説教抄録

日本キリスト教団磐城教会 2017年1月15日
 2-1彼はわたしに言われた。「人の子よ、自分の足で立て。わたしはあなたに命じる。」2彼がわたしに語り始めたとき、霊がわたしの中に入り、わたしを自分の足で立たせた。わたしは語りかける者に耳を傾けた。3主は言われた。「人の子よ、わたしはあなたを、イスラエルの人々、わたしに逆らった反逆の民に遣わす。彼らは、その先祖たちと同様わたしに背いて、今日この日に至っている。4恥知らずで、強情な人々のもとに、わたしはあなたを遣わす。彼らに言いなさい、主なる神はこう言われる、と。5彼らが聞き入れようと、また、反逆の家なのだから拒もうとも、彼らは自分たちの間に預言者がいたことを知るであろう。6人の子よ、あなたはあざみと茨に押しつけられ、蠍の上に座らされても、彼らを恐れてはならない。またその言葉を恐れてはならない。彼らが反逆の家だからといって、彼らの言葉を恐れ、彼らの前にたじろいではならない。7たとえ彼らが聞き入れようと拒もうと、あなたはわたしの言葉を語らなければならない。彼らは反逆の家なのだ。8人の子よ、わたしがあなたに語ることを聞きなさい。あなたは反逆の家のように背いてはならない。口を開いて、わたしが与えるものを食べなさい。」9わたしが見ていると、手がわたしに差し伸べられており、その手に巻物があるではないか。10彼がそれをわたしの前に開くと、表にも裏にも文字が記されていた。それは哀歌と、呻きと、嘆きの言葉であった。
 3-1彼はわたしに言われた。「人の子よ、目の前にあるものを食べなさい。この巻物を食べ、行ってイスラエルの家に語りなさい。」2わたしが口を開くと、主はこの巻物をわたしに食べさせて、3言われた。「人の子よ、わたしが与えるこの巻物を胃袋に入れ、腹を満たせ。」わたしがそれを食べると、それは蜜のように口に甘かった。4主はわたしに言われた。「人の子よ、イスラエルの家に行き、わたしの言葉を彼らに語りなさい。
エゼキエル書 2章1節〜3章4節
 18イエスは、ガリラヤ湖のほとりを歩いておられたとき、二人の兄弟、ペトロと呼ばれるシモンとその兄弟アンデレが、湖で網を打っているのを御覧になった。彼らは漁師だった。19イエスは、「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と言われた。20二人はすぐに網を捨てて従った。21そこから進んで、別の二人の兄弟、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネが、父親のゼベダイと一緒に、舟の中で網の手入れをしているのを御覧になると、彼らをお呼びになった。22この二人もすぐに、舟と父親とを残してイエスに従った。

 23イエスはガリラヤ中を回って、諸会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、また、民衆のありとあらゆる病気や患いをいやされた。24そこで、イエスの評判がシリア中に広まった。人々がイエスのところへ、いろいろな病気や苦しみに悩む者、悪霊に取りつかれた者、てんかんの者、中風の者など、あらゆる病人を連れて来たので、これらの人々をいやされた。25こうして、ガリラヤ、デカポリス、エルサレム、ユダヤ、ヨルダン川の向こう側から、大勢の群衆が来てイエスに従った。
マタイによる福音書 4章18〜25節
1.主イエスのまなざし
  主イエス・キリストが、宣教活動を始められたときのことを、福音書は伝えています。その初めに、主はガリラヤ湖のほとりを歩き回っていらっしゃいました。そこに最初の目的がありました。ご自分の弟子たちを召し出すことです。主は、これから歩でいかれる福音宣教の旅を、最初からひとりで歩もうとはなさいませんでした。弟子たちを召して、ご自分の弟子たちと共に歩むことをお望みになります。主イエスが、この場所で御目に留められたのは、漁師であったペトロとアンデレという兄弟でした。彼らが「網を打っているのを御覧に」(マタ4:18)なる主イエスの静かなまなざしがあります。

  「こんにちは」「あ、どうも」。「今日の漁はどんな感じですか?」「ぼちぼちですね」。「何が釣れましたか」「いや、いま網を打ったところなんで、まだ何も」。そんなあいさつもあったのでしょうか。何も書かれていません。ただ、こう書かれています。主イエスが、この兄弟に向かって、「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」(マタ4:20)と言われたのだ、と。ふたりは、この一方的な招きに対して「すぐに網を捨てて従った」(マタ4:20)のだ、と言います。

  主イエスは、さらにもう一組の兄弟に御目を留められます。ゼベダイの子ヤコブとヨハネです。この兄弟もガリラヤ湖で生活を立てる漁師でした。主は、彼らが父親と共に「舟の中で網の手入れをしているのを御覧に」(マタ4:21)なったと言います。主イエスの静かなまなざしがあります。主は、何を考えていらっしゃったのでしょうか。彼らにどのような言葉をかけられたのでしょうか。詳しいことは書かれていません。しかし、主は、彼らをご覧になり、「お呼びに」(マタ4:21)なりました。そして招きに対して、「この二人もすぐに、舟と父親とを残してイエスに従った」(マタ4:22)とあります。「網を捨てて従った」とは、主の弟子として潔く恰好のよいことに思えますが、「舟と父親とを残して…従った」というのは、何か不穏なものが残ります。

  マルコ福音書にも、最初の弟子たちの召命記事が収められていますが、この場面の伝え方が少し違っています。マルコは、ヤコブとヨハネが、「父ゼベダイを雇い人たちと一緒に舟に残して、イエスの後について行った」(マコ1:20)と伝えています。父の仕事の手伝いを放棄して主イエスに従うことは、非常なことに思えるのですが、残された父は「雇い人たちと一緒」なのだから、この先も心配はいらない、というメッセージにも受け取れます。けれども、マタイの記事にはそのような弁解の余地がありません。ゼベダイの子ヤコブとヨハネ、「この二人もすぐに、舟と父親とを残してイエスに従った」のです。このふたりは、後に「ボアネルゲス、すなわち、『雷の子ら』」(マコ3:17)というあだ名をつけられます。このあだ名は、おそらく、ふたりの穏やかではない性格に由来するものでしょう(ルカ9:54)。

2.最初の召命の重み
  今日の弟子たちの召命の場面を読むと、いつも思い巡らすことがあります。こうして召された主イエスの弟子たちは、主にとっては、決して心強い存在ではなかったはずだ、ということです。主イエスという人は、すばらしいお方でしたが、人を見る目はありませんでした、ということを福音書は語っているようにさえ思えます。主は、ご自分が召した弟子たちをお愛しになり、いつも一緒にいて、すべてのことを教えてこられました。しかし、弟子たちは主の言葉や行動の意味をイマイチよく理解できません。主の最期に至っては、自分たちの身に危険が及ぶことを恐れて、逃げ去ってしまいました。弟子たちの中で、決定的な裏切りを行う者が出ました。この裏切りが引き金となる主の十字架は、悲劇としか言いようがなく、残念ながら、主イエスというお方は見る目がなかったと言わざるを得ません。

  しかし、です。主イエスはこのような弟子たちの手によって葬られることを恥とはなさいませんでした。そして、3日後に復活されたとき、主は、最初にこの弟子たちのところにやって来られました。目的を持って来られました。ご自分の弟子たちを召し出すため、です。弟子たちは、あてもなくガリラヤ湖に来ていました。ペトロが「わたしは漁に行く」(ヨハ21:3)と言い出したので、他の弟子たちも一緒になって舟に乗り込みました。かつて漁師だった弟子たちが、捨てたはずの網を握りしめています。復活の主は、この湖に来られました。弟子たちに会いに来られました。弟子たちを召しに来られました。3日目によみがえられた主は、もう弟子たちのことは抜きにして、ご自分のお力で、福音伝道を進められた方がよかったのではないですか。でも、主は、そうはなさいませんでした。弟子たちを愛しておられたからです。弟子たちのところに来られて、弟子たちを呼ばれ、弟子たちにすべてを託して言われました。「あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい」(マタ28:19〜20)。マタイ福音書は、主の弟子たちへの再召命の言葉で閉じられています。

  最初の弟子たちの召命は、失敗に終わったように見えました。でも、この最初の召命は、なかったことのように上書きされることはありませんでした。この出来事は、紛れもなく、主イエスの宣教活動の決定的な出発点として位置づけられています。当時、聖書の教えを学ぶ学生は、よい先生を自ら探し求めて、弟子入りを申し入れたのだそうです。しかし、主イエスの弟子たちは違っていました。弟子たちではなく、主御自らがお選びになります。わたしたちは、自分で看板を見て、ウェブで見つけてここに来たと思っています。しかし主が、たしかにこのわたしをご覧になったのです。ふさわしくない者です。しかし主が、このふさわしくない者の名を呼ばれたのです。

3.主イエスの宣教
  従った弟子たちは、主イエスの宣教を目の当たりにします。主は、ガリラヤ中を回り、「諸会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、また、民衆のありとあらゆる病気や患いをいやされた」(マタ4:23)とあります。教え、説教し、いやすこと。これが、弟子たちが目の当たりにした主の宣教のお姿でした。主は、その初めから、病や痛み、苦しみ、あらゆる心身の障がいを負った人たちのところに赴かれ、初めに主のもとに集ってきたのも、彼らだった、と福音書は伝えているのです。

  この場面を読むと、思い出すことがあります。障がい者のある集会に参加したときに知り合った方が、教えてくださったことです。デパートやスーパーに出かけると、「障がいをお持ちの方は…」と配慮が書かれていることがありますが、彼はこの言葉に抵抗がある、と言います。「障がいをお持ちの方」というと、一見丁寧なように聞こえます。でも、障がいを「持つ」(have)という言葉は、自ら進んで「持っている」「身につけている」という意味合いの言葉で、実際にはそうではないはずだ、と言うのです。障がい当事者は、自らの意志とは別に障がいが「ある」(be)のだ、と。テレビ局によっても表現が異なっているそうです。自分は、「障がいを持っている」のではなく、「障がいある者」なのだ、と教えてくださいました。「ありのままのわたし」とは、抗えない力によって重荷を負っている自分の姿なのです。

  病気や患いを、人間という複雑な機械が機能不全に陥っている状態であると考えるならば、必要なのは、発達した医療技術です。けれども、病気や患いの問題は、単に医学的な問題ではありません。世界に目を向けて明らかなことは、病気の第一の要因は貧困です。この貧困は、根本的には紛争や搾取によってもたらされたものです。病気や患いは、政治的、社会的、経済的問題であり、さらに精神的、霊的問題でもあります。自ら進んでこれを負う人はありません。当時、病人や障がい者は、健康な人が享受する正当な権利をもって生活することは困難でしたが、古代教会は、病人や障がいある人たち、死に直面する人々、貧しい人々に対する奉仕を、大切な主の宣教の業としてきました。

  主イエスの宣教は、欠けあるわたしたちが、自分を愛すること、さらに自身を愛するように隣人を愛することに、大きなチャレンジを与えるものです。さまざまな壁のある分断された社会にわたしたちは生きています。わたしたちは多様な者でありながら、しかし、ひとつの体としてこの場所に招かれました。この中心には、命のパン(み言葉、説教、聖餐)があります。聖餐は、キリスト者にとって、政治的、社会的、言語的、文化的な壁を越えてひとつとされる、もっとも重要な「いやし」です。多くの人がこのパンを待っています。ある人が言いました。「信者はパンと魚を待つ。しかし弟子は漁師となる」(G.D.レーマン)。わたしたちは漁師となり、命のパンを分かち合うのです。

祈り


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          いわき きょうかい
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牧師 上竹 裕子
更新:2017.2.24

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