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降誕節第5主日 ≪宣教の開始≫
礼拝説教抄録

日本キリスト教団磐城教会 2017年1月22日
 先に
 ゼブルンの地、ナフタリの地は辱めを受けたが
 後には、海沿いの道、ヨルダン川のかなた
 異邦人のガリラヤは、栄光を受ける。

1 闇の中を歩む民は、大いなる光を見
 死の陰の地に住む者の上に、光が輝いた。
2 あなたは深い喜びと
   大きな楽しみをお与えになり
 人々は御前に喜び祝った。
 刈り入れの時を祝うように
 戦利品を分け合って楽しむように。
3 彼らの負う軛、肩を打つ杖、虐げる者の鞭を
 あなたはミディアンの日のように
   折ってくださった。
イザヤ書 8章23節b〜9章3節
 12イエスは、ヨハネが捕らえられたと聞き、ガリラヤに退かれた。13そして、ナザレを離れ、ゼブルンとナフタリの地方にある湖畔の町カファルナウムに来て住まわれた。14それは、預言者イザヤを通して言われていたことが実現するためであった。
15「ゼブルンの地とナフタリの地、
 湖沿いの道、ヨルダン川のかなたの地、
  異邦人のガリラヤ、
16暗闇に住む民は大きな光を見、
 死の陰の地に住む者に光が射し込んだ。」
 17そのときから、イエスは、「悔い改めよ。天の国は近づいた」と言って、宣べ伝え始められた。
マタイによる福音書 4章12〜17節
1.異邦人のガリラヤ
  本日、聖書日課によってわたしたちが与えられた福音は、主イエス・キリストの宣教の初めの短い記事です。主イエスの公生涯の宣教活動がいよいよ始まるという場面なのですが、この記事の始まりは少し変わっています。「ヨハネが捕らえられたと聞き、ガリラヤに退かれた」(マタ4:12)とあります。ヨハネが捕らえられたということがどういうことなのか、この福音書の後の方(14章)に登場しますが、ヨハネの投獄を知った、主イエスは「ガリラヤに退かれた」と言います。「退く」という言葉は、主イエスの宣教の出立にふさわしくないように思えます。逃げ腰にも聞こえます。この言葉は、しかし、まだ赤ん坊であった主が、ヘロデ大王の虐殺の手から「逃れ」「エジプトを去」(マタ2:14)った、場面を思い起こさせる言葉です。

  マタイは、明らかに物語が前に進んでいく決定的な場面での主イエスのお姿を「退く」という言葉で、あえて表現します。そこに浮彫になるのは、人間の力です。人間が力を奮う中、主が、神の力をもって衝突することはありません。主は、ヨハネの代わりとなって出ていって、神の力を誇示するという道を選ばれませんでした。

  主イエスは、故郷ナザレを離れて、ゼブルンとナフタリの地方にある湖畔の町カファルナウムに来て住まわれた、と福音書は伝えています。そして、ここで紀元前8世紀の預言者イザヤが語った預言が実現しました。「ゼブルンの地とナフタリの地、 湖沿いの道、ヨルダン川のかなたの地、 異邦人のガリラヤ、暗闇に住む民は大きな光を見、 死の陰の地に住む者に光が射し込んだ」(マタ4:14)。

  「異邦人のガリラヤ」と呼ばれるこの地域ですが、新約聖書の時代には、おもな住民はユダヤ人でした。けれども、ひと昔前には、外国の侵入によって混血が進んだ地域として、ユダヤ人からはいとわれた場所であったとも言われています。特に、この預言者イザヤの時代には、ガリラヤを含むパレルチナ北部が、外国の侵略を受けました。この地域が外国人との結婚によって混血が進んだことで、混じりけのない信仰にこだわるゆえに混血を嫌うユダヤ人は、やがて「異邦人のガリラヤ」「暗闇に住む民」などと蔑んだ呼び方をしました。預言者イザヤは、暗闇と呼ばれた地に住む民が、「大いなる光を見」(イザ9:1)ると告げました。彼らの嘆きと悲しみが拭い去られ、彼らには「深い喜びと 大きな楽しみ」(イザ9:2)が与えられる、と。

  新約聖書の時代には、すでにユダヤ人の居住地域となっていたガリラヤが、「異邦人のガリラヤ」と呼ばれる所以は、外国による侵入という強烈な歴史の記憶にあります。かつて「異邦人のガリラヤ」「死の陰の地」と軽蔑もって呼ばれたこの地に「光が射し込んだ」という言葉は、主イエスの救いの業が異邦人におよび、「すべての民に」(マタ28:19)及んでいくことを暗示しています。

2.神の国を遠ざけようとするもの
  主イエスは、宣教の初めに、こう言われました。「悔い改めよ。天の国は近づいた」(マタ4:17)と。これから始まる主の宣教は、悔い改めと、天の国の接近を人々に伝えることです。「悔い改め」は、聖書の中で重要なキーワードのひとつですが、単に罪を自覚したり、後悔したりすることを意味するのではありません。聖書のギリシャ語で、「悔い改め」は、「回心」を表す「メタノイア」という言葉です。「メタノイア」は、180度方向転換をして向き直ることです。180度方向転換をする、というのは、自分に向かっていた矢印を、神に向けていく動きです。かつて、宗教改革者のマルティン・ルターがこのように言いました。「クリスチャンの全生涯が悔い改めであるべきである」と。わたしたちはすぐに神から目をそらす弱い者で、絶えず悔い改めを求められる者です。しかし、主イエスは、「悔い改めなさい。天の国が近づくために」とか、「悔い改めなさい。そうすれば天の国が近づく」とかと言っているのではないのです。「悔い改めなさい。天の国が近づいたから」という言葉です。悔い改めが整っていないわたしたちに「天の国が近づいた」とおっしゃるのです。「天の国が近づいた」という現実こそが、わたしたちの悔い改めの根拠です。

  「天の国」というのは、「神の国」と同義ですが、ユダヤ人が神への尊敬から「神」という言葉を気軽に口にするのを避けるので、マタイも福音書を通してそのようにしています。

  古代教会で活躍した神学者、アウグスティヌスという人は、わたしたちの間では、二つの国が対立していると言いました。「神の国」と「この世の国」です。彼は、キリスト者の生活の複雑さは、根本的に異なる価値観や願望を持つこの二つの国の緊張から来ていると考えていました。次のように説明しています。

「これら二つの国は、二つの愛でなっている。この世の国は神をも軽視するほどに自己愛によっており、天の国は自分のことさえ軽視するほどに神への愛によっている。つまり、この世の国は自己をたたえ、天の国は主をたたえるのである。片方は人々からの栄誉を求めるが、他方にとって最大の栄光は良心の証人である神だからである。片方は自らの栄光に鼻を高くし、他方は自らの神に『あなたはわたしの栄光です。わたしに顔を上げさせてくださる方です』と言う。片方の国では君主たちもその下の国民も支配欲に支配されている。他方は君主も臣下も愛によって互いに仕え、臣下は従い、君主はすべての人々に必要なことを気にかけている。片方は君主が体現している自国の力を喜び、他方は神に『主よ、あなたはわたしの力、わたしはあなたを愛します』と言うのである」(アウグスティヌス『神の国』)

  教会は、この世に漂流する船です。キリスト者自身が、このような矛盾や葛藤をもって生きています。わたしたちがこの緊張から完全に解かれる日は、船が最終目的地に到着するときです。最後の審判の日です。

3.天への門は開かれた
  クリスマスを過ごして新しい主の年を迎えたこの1月、主イエスの公生涯の初めの物語を共に聞いています。聖書には、主イエスが宣教を始められたのは、およそ30歳であったと伝えられています(ルカ3:23)。そして、主は3年余りの公生涯の後に、十字架の刑死を迎えられます。

  十字架に向かう歩みの中で主イエスは、「わたしは復活した後、あなたがたより先にガリラヤに行く」(マタイ26:32)と言われました。これは、主の最後の晩餐の後、弟子たちの離反を予告する場面で、主が語られた言葉です。「今夜あなたがたは皆わたしにつまずく」(マタ26:31)と、主は弟子たちに言われたのです。この主のお言葉に対して、主の一番弟子を自負していたペトロは否定して言いました。「たとえ、みんながあなたにつまずいても、わたしは決してつまずきません」(マタ26:33)と言いました。けれども、そのペトロも、主が捕らえられた後、裁判を覗き見ながら、自分も捕らえられてしまうのではないかと恐くなって逃げ出します。三度も主を知らないと言い捨てて、その場所から逃げ去ってしまうのです。

  主イエスはそのような人間の裏切りの中で、十字架の死を迎えられました。ところが、十字架の死を遂げられ、復活された主イエスは、最初に出会った婦人たちにまた、このように言うのです。「行って、わたしの兄弟たちにガリラヤへ行くように言いなさい。そこでわたしに会うことになる」(マタ28:10)。「ガリラヤに行くように」と言います。なぜガリラヤなのでしょうか。ガリラヤとは、どのような場所でしょうか。主が、その公生涯の初めに、福音を告げられた地です。「悔い改めよ。天の国は近づいた」と。この地で主は、弟子たちに出会われ、弟子たちを召し出されました。そして復活の主は、そのガリラヤで再び、弟子たちと出会い、弟子たちを召れたのです。「あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい」(マタ28:19〜20)。こう言われて主イエスは、弟子たちを召し出し、伝道へと遣わされます。ガリラヤは、弟子たちの始まりの地でした。ガリラヤは、弟子たちの再出発の地となりました。悔い改めの地、回心の場所であったのです。

  主イエスは、わたしたちが絶えず、この場所に向き直ることを求められます。わたしたちの悔い改め、主イエスと出会った場所に立ち帰るよう、求められます。それは、一人ひとりに備えられている場所、始まりの場所、わたしたちのガリラヤです。わたしたちは、この場所で再び主に出会い、再び召し出されます。この場所で、主が「神の国」の門を開いてくださいました。なお、わたしたちの中で、せめぎ合う「この世の国」があります。けれども、「この世の国」で経験する苦しみ、悩み、虚しさはすべて、主の十字架によって克服されたのです。

祈り


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Tel/Fax 0246-21-2145
          いわき きょうかい
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牧師 上竹 裕子
更新:2017.2.24

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