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降誕節第7主日 ≪たとえで語るキリスト≫
礼拝説教抄録

日本キリスト教団磐城教会 2017年2月5日
8 そのとき、わたしは主の御声を聞いた。
 「誰を遣わすべきか。誰が我々に代わって行くだろうか。」
 わたしは言った。
 「わたしがここにおります。わたしを遣わしてください。」
9 主は言われた。
 「行け、この民に言うがよい
 よく聞け、しかし理解するな
 よく見よ、しかし悟るな、と。
10この民の心をかたくなにし
 耳を鈍く、目を暗くせよ。
 目で見ることなく、耳で聞くことなく
 その心で理解することなく
 悔い改めていやされることのないために。」
11わたしは言った。
 「主よ、いつまででしょうか。」
 主は答えられた。
 「町々が崩れ去って、住む者もなく
 家々には人影もなく 大地が荒廃して崩れ去るときまで。」
12主は人を遠くへ移される。
 国の中央にすら見捨てられたところが多くなる。
イザヤ書 6章8〜12節
 10弟子たちはイエスに近寄って、「なぜ、あの人たちにはたとえを用いてお話しになるのですか」と言った。11イエスはお答えになった。「あなたがたには天の国の秘密を悟ることが許されているが、あの人たちには許されていないからである。12持っている人は更に与えられて豊かになるが、持っていない人は持っているものまでも取り上げられる。13だから、彼らにはたとえを用いて話すのだ。見ても見ず、聞いても聞かず、理解できないからである。14イザヤの預言は、彼らによって実現した。
 『あなたたちは聞くには聞くが、決して理解せず、
 見るには見るが、決して認めない。
15この民の心は鈍り、
 耳は遠くなり、
 目は閉じてしまった。
 こうして、彼らは目で見ることなく、
   耳で聞くことなく、
 心で理解せず、悔い改めない。
 わたしは彼らをいやさない。』
16しかし、あなたがたの目は見ているから幸いだ。あなたがたの耳は聞いているから幸いだ。17はっきり言っておく。多くの預言者や正しい人たちは、あなたがたが見ているものを見たかったが、見ることができず、あなたがたが聞いているものを聞きたかったが、聞けなかったのである。」
マタイによる福音書 13章10〜17節
1.あらゆる場所で語られる主
  先日、読んでいた本に、おもしろいことが書かれていました。アメリカのハワード・フィンスターという牧師―15年前に亡くなっています―が、あるとき教会に仕えることを辞めて、たったひとりで約12平方キロメートルほどの土地に、数十年かけて楽園を作ったというお話です。その庭は「パラダイス・ガーデン」と呼ばれています。芝刈り機のハンドル二本で作られた十字架がそびえ立っています。古い自転車を積み上げてできたタワー、空き瓶や鏡、さまざまな廃品が組み合わされてできた複雑な天使像や教会、寺院風の建物。これだけを見ると、とんでもなく悪趣味な庭なのですが、一方で、この庭全体には、木々が茂り、果実や草花、鳥やミツバチが宿っています。自然の中にジャンクなものでできたオブジェが融合している、不思議な庭なのです。「パラダイス・ガーデン」の中には至る所に看板があります。その一つには、こう書かれています。「この園を壊れたもので造ったのは、壊れた世界を直すためである」と。

  ハワード・フィンスターは、バプテスト教会の牧師として9つの教会で奉仕していました。彼は、教会で4625回の説教をして、400件以上の葬儀と200件以上の結婚式をしたらしいのです。ところが、この牧師、何を思ったのか、1970年代の初めのあるときに、教会でアンケートをとってみたそうです。アンケートの結果、彼が語ってきた言葉を、だれひとり、何一つ覚えていないということがわかったのだそうです。そのことに幻滅した彼は、教会で説教するのをやめて、壊れた物の修理を始めたと言うのです。それであるとき、神からの啓示を受けて、創作活動を始めたという、ちょっと変わり種のアーティストです。この牧師の顔が見てみたいという方は、礼拝後にわたしのところに来てください。フィンスター牧師は言いました。「主イエスは人々に大切なことを悟らせるために、身の周りのものを用いて語っています。神のメッセージはあらゆる場所に転がっているのです」。神のみ言葉。わたしたちは、聞いているようで聞いていないのかもしれません。でも、主イエスは、日々の暮らしのただ中で、わたしたちのごくごく身近なところで語り続けていらっしゃる、と言うのですね。

  主イエスは、「神の国」についてお教えになるとき、いくつものたとえを用いて語られました。今日開かれているマタイによる福音書の13章には、7つものたとえが登場します。「種をまく人」のたとえ(13:1〜9)や「毒麦」のたとえ(13:24〜30)、「からし種」と「パン種」のたとえ(13:31〜33)などが続きます。主は、神の国を特別な方程式や元素記によって証明したのではありませんでした。だれもが知っている身近なことを通して、たとえによってお語りになります。外で種を蒔いて耕し、汗を流す男性が登場します。また、大量の粉でパン生地をこねる重労働に精を出している女性も登場してきます。骨の折れる日常の経験が、神を見る窓となるのです。

2.挑発的な説教?
  これらのたとえは、しかし、必ずしも明快でわかりやすいものというわけではありませんでした。たとえの奥には、どこか奇妙で知らない世界が広がっているようにも見えます。たとえは、飽くまで「たとえ」です。たとえによって語ることは、「開き示すこと」であるのと同時に、直接的な言葉でないという意味では「隠すこと」でもありました。語られたたとえが、すべての人に自動的に理解されるということにはならなかったのです。

  主イエスが、「種を蒔く人」のたとえをお語りになると、弟子たちは主に尋ねました。「なぜ、あの人たちにはたとえを用いてお話しになるのですか」(マタ13:10)。主はお答えになります。「あなたがたには天の国の秘密を悟ることが許されているが、あの人たちには許されていないからである」(マタ13:11)と。ここで主は、旧約聖書の言葉を引用して言われます。「あなたたちは聞くには聞くが、決して理解せず、見るには見るが、決して認めない」(マタ13:14)。これはイザヤ書6章の言葉です。預言者イザヤは、神に召されたときにこう言われたのです。「行け、この民に言うがよい よく聞け、しかし理解するな よく見よ、しかし悟るな、と」(イザ6:9)。この場面は、イザヤ書の中で「頑迷預言」(心をかたくなにするメッセージ)と呼ばれる不可解な箇所のひとつです。預言者が、神の言葉を語るようにと遣わされるのですが、その遣わされる先の民は、不信仰でかたくなな人たちだというのです。この民に語るようにと、預言者は召され、遣わされます。

  例えば、日曜日にだれか、ゲストの説教者が、この聖壇に立って、こう言うのです。「よく聞け! しかし理解するな。よく見よ! しかし悟るな」と。この挑発的な説教者はいったい何を言いたいのか、と聴衆はかえって息をのんで話を聞くかもしれません。皆が注意深く聞いたとします。それでも、この「心をかたくなにするメッセージ」に別のオチがなく、不協和音のままで終われば、この説教者は二度と磐城教会には呼ばれないと思います。しかし、実際に神は、イザヤというひとり説教者を立てて、こう語るようにお示しになりました。「よく聞け、しかし理解するな。よく見よ、しかし悟るな」と。

  今日の福音書で、主イエスの語られる言葉は、イザヤ書の言葉と少し違っています。イザヤ書では、「よく聞け、しかし理解するな。よく見よ、しかし悟るな」と言われているのに対して、主は「聞くには聞くが、決して理解せず、見るには見るが、決して認めない」と言われました。神の言葉が語られたときの、人間の側の反応にフォーカスしているのです。イザヤ書では、人々の心をかたくなにする主体は、預言者が語る神の言葉です。けれども、「種を蒔く人」では、心をかたくなにする主体はわたしたち自身です。人は主に出会うのに、それをなかなか認めようとはしません。すぐそばで主のみ声を聞いているのに、信じないのです。

3.主を見る人は幸い
  2月を迎え、今、幼稚園の年長の子どもたちは卒園記念の新約聖書を開いて礼拝をしています。先週、幼稚園の礼拝の前に、年長の男の子が泣きながらホールにやって来ました(工事中はホールで礼拝しています)。礼拝の後、「どうして泣いたの」と聞いたところ、バツが悪そうに、「先生に叱られた」と言います。なぜ叱られたのか聞くと、ふざけて、もらったばかりの新しい聖書の上に座ったのだそうです。「それはいけませんね。ぜったいにダメです」。クラスの先生にも牧師にも注意されて、いつも元気なその子が一瞬、しゅんとなりました。

  普段、わたしが持っている聖書の外側が金色になっているので、子どもたちは金のところを触りながら「どうして牧師先生の聖書は金なの?」と聞いてきます。何度も同じことを聞いてきます。そのたびに、「これは神さまのお言葉のご本だから、特別なんだよ」と教えます。子どもたちは、聖書が特別なものだということは知っています。先生たちも聖書を雑に扱ったりはしません。それなのに、どうしてこの子は聖書の上に座ってしまったのでしょう。思い出して考えていました。おそらく、この子は、神さまのお話を聞いて、聖書が大切なものだと、ぼんやりとはわかっているのですが、でも、まだはっきりとは知らないのです。

  そして思ったことは、わたしたちもこの男の子と同じことをしているのではないか、ということです。まさか聖書の上に座ったりするなんてことはないでしょう。そんなことをするはずはありません。でも、わたしたちは本当に聖書を踏みつけていないと言えるのでしょうか。踏みつけるなんてとんでもないことです。でも、わたしたちは、神の言葉から顔を背け、主の十字架を踏みつけるようなことをしてはいないだろうか。いつも聞いているのに、理解しない。すぐそばで見ているのに、悟らない。わたしたちの姿かもしれません。

  主は、語られないのではありません。ごく近くで、語り続けています。主の物語には、外で種を蒔いて耕し、汗を流す男性が登場します。肝心なのは、男性がどれだけの労力を費やしたか、どれだけ汗を流したか、ではありません。どんな種よりも小さな種から、鳥が来て枝に巣を作るほどの立派な木になるという不思議を語っているのです。神の国とは、そういうものなのだと。主の物語には、一人の人が練ることのできる最大量のパン生地をこねる重労働に励んでいる女性が登場します。でも、大事なのは、彼女の筋肉とか努力ではありません。ほんの少しのパン種が100人分のいのちのパンを膨らませるという不思議です。神の国とはこういうものだと、台所でも主はお語りになります。主の世界観、言葉、語り口、息づかい。ごく近くに主の息吹を感じるならば、わたしたちは幸いなのです。今日、わたしたちに向かって、主は宣言されます。「あなたがたの目は見ているから幸いだ。あなたがたの耳は聞いているから幸いだ」(マタ13:16)と。

祈り


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          いわき きょうかい
日本キリスト教団 磐 城 教 会
牧師 上竹 裕子
更新:2017.2.24

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