印刷用PDF(A4版)
降誕節第8主日 ≪教えるキリスト≫
礼拝説教抄録

日本キリスト教団磐城教会 2017年2月12日
18それゆえ、主は恵みを与えようとして
   あなたたちを待ち
 それゆえ、主は憐れみを与えようとして
   立ち上がられる。
 まことに、主は正義の神。
 なんと幸いなことか、すべて主を待ち望む人は。
19まことに、シオンの民、エルサレムに住む者よ
 もはや泣くことはない。
 主はあなたの呼ぶ声に答えて
 必ず恵みを与えられる。
 主がそれを聞いて、直ちに答えてくださる。
20わが主はあなたたちに
 災いのパンと苦しみの水を与えられた。
 あなたを導かれる方は
   もはや隠れておられることなく
 あなたの目は常に
   あなたを導かれる方を見る。
21あなたの耳は、背後から語られる言葉を聞く。
 「これが行くべき道だ、ここを歩け
 右に行け、左に行け」と。
イザヤ書 30章18〜21節
 17「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである。18はっきり言っておく。すべてのことが実現し、天地が消えうせるまで、律法の文字から一点一画も消え去ることはない。19だから、これらの最も小さな掟を一つでも破り、そうするようにと人に教える者は、天の国で最も小さい者と呼ばれる。しかし、それを守り、そうするように教える者は、天の国で大いなる者と呼ばれる。20言っておくが、あなたがたの義が律法学者やファリサイ派の人々の義にまさっていなければ、あなたがたは決して天の国に入ることができない。」
マタイによる福音書 5章17〜20節
1.律法を完成するために
  マタイ福音書の5章から7章にかけては、主イエスの「山上の説教」と呼ばれている箇所です。山上の説教は、「八つの幸い」と呼ばれる祝福の宣言で始まります。「心の貧しい人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである」(マタ5:3)。「悲しむ人々は、幸いである、その人たちは慰められる」(マタ5:4)。これらの主の祝福のみ言葉は、広く愛唱されてきた聖句です。主は、またこのようにも言われました。「あなたがたは地の塩である」(マタ5:13)。「あなたがたは世の光である」(マタ5:14)。毎年、幼稚園の子どもたちの月間の暗証聖句に選んでいる、いつまでも憶えていてほしい言葉です。このような祝福の言葉を聞いてきた人たちにとって、17節に語られる言葉は、唐突で、驚きではなかったかと思います。主は、こう言われるのです。「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだと思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである」(マタ19:17)と。

  ユダヤ人にとって、「律法」がどのようなものであったかということは、よく知られています。神のご意志は、律法の中にすべて示されていると考えられていました。律法を守ることこそが、神のみ心に沿って生きる道でした。この律法の中心にあるのが、十戒です。わたしたちの日々の複雑な生活を律するのに、十戒はシンプルすぎるので、旧約聖書の最初の五つの書に記されたさまざまな規定を「律法」として守りました。この律法を徹底して守るために、さらに細かい規則が整備されていきました。

  安息日に関する規定が増えていったことは、容易に想像できることです。「安息日を心に留め、これを聖別せよ」(出20:8)という掟は、十戒の第四戒にあり、もっとも重要な掟のひとつです。安息日に「働くこと」は禁止されています。けれども、これを実生活の中で守り抜くことは簡単なことではありません。単に、仕事を休めばよいというのではありませんでした。例えば、安息日に荷物を運ぶことは律法に反します。でも、その荷物が何であるのか、自分の子を抱いて歩くことは、荷物を運ぶことになるのか、などと際限なく取り決めが必要でした。治療することも、仕事とみなされましたから、歯が痛くても、安息日に歯を抜くことはできません。でも、歯が抜けることはセーフでした。

  主イエスのご生涯の歩みを記す福音書には、律法に反するかのような振る舞いも描かれています。安息日に、病気の人をいやしたり、徴税人や罪びとたちと食事を共にしたり、律法で禁じられていることをして物議を醸したこともありました。主は、しかし、律法を無効にするために来たとは言われませんでした。律法を「完成するために」、成就するために来たとおっしゃるのです。主にとって律法を成就することと罪びとたちと食卓を囲むことは、矛盾することではありませんでした。

2.律法学者にまさる義
  主イエスの語られる福音は、「律法を守れなくても何とかなるさ」という生温かいものではありませんでした。「ありのままで気楽にいきましょう」というものでも、「自分の好きなように生きなさい」というものでもありませんでした。主は、はっきりとこのようにおっしゃるのです。「言っておくが、あなたがたの義が律法学者やファリサイ派の人々の義にまさっていなければ、あなたがたは決して天の国に入ることができない」(マタ5:20)と。

  律法学者やファリサイ派の人たちは、律法の専門家でユダヤ教の指導者の立場にある人たちでした。新約聖書においては、主イエスに敵対者として語られることが多いグループなのですが、もともとユダヤの伝統の中では、「敬虔な人たち」、「義人」と呼ばれてきた人たちでした。

  ここで主イエスが言われた「律法学者にまさる義」とは、どのような意味なのでしょうか。「より厳しい律法主義者になりなさい」とか、「よりエスカレートしたファリサイ派になりなさい」とかということではないはずです。もし、そのような意味で「あの人たちの上をいきなさい」と言われるのなら、とてもハードルが高い話です。律法学者たちもファリサイ派の人たちも、律法を守ることにかけては、エリート教育を受けてきた人たちなのですから。それでならば、主イエスは、どのような意味で「律法学者にまさる義」ということをおっしゃったのでしょう。

  マタイ福音書19章に、主イエスとある金持ちの青年の出会いが描かれています。青年は、主イエスに近づいてきて言いました。「先生、永遠の命を得るには、どんな善いことをすればよいのでしょうか」(マタ19:16)。主イエスは、お答えになりました。「掟を守りなさい」と。十戒に言われていることを守りなさい、と。すると青年は言いました。「そういうことはみな守ってきました。まだ何か欠けているでしょうか」。主はお答えになります。「行って持ち物を売り払い、貧しい人々に施しなさい」(マタ19:21)。青年は、この主のお言葉を聞いて肩を落とし、そこから立ち去りました。

  この場面で、主イエスは、律法というものがどういうものであるのかを、注意深く教えています。律法は、神からの賜物です。重要なことは、この律法が「わたしのもの」ではなく「わたしたちのもの」だということです。「そういうことはみな守れています」と言うとき、律法は、個人的な、自己実現の道具になってしまっています。自分の行動、自分の良心に関心があります。「キリスト者は、自分の良心に寄り掛かりすぎることが、よくある」と、ある人は言いました。わたしたちもまた、この金持ちの青年のような過ちに陥りやすい者です。律法は、これをしなければ安全、これをしていれば安心、安心安全の保証書ではありません。さまざまな出会いを通して、主イエスは律法をお語りになりました。主が語られるとき、律法は生きたものとなって、わたしたちに語りかけてきます。

3.よろこびの掟
  今日の箇所に続いて、主イエスは律法について説教されます。皆さん、「殺すな」という掟を知っていますね。「殺してなどいない」と、だれもが言うでしょう。でも、兄弟に腹を立てて「ばか」と言うならば、同じことです(マタ5:21〜26)。「姦淫するな」という掟を、皆さん、知っていますね。「不倫なんてとんでもない」と、だれもが言うでしょう。でも、みだらな思いで人の妻を見るならば、同じことなのです(マタ5:27〜30)。さらに、主は説教されます。「隣人を愛し、敵を憎め」と命じられていますね。でも、敵を愛しなさい。そして自分を苦しめる人のために祈るのです。自分を愛してくれる人だけを愛するなんて、子どもじみたことじゃないですか。そんなことを天の父がお望みと思うのですか。あなたたちは、むしろ、もっと成熟した信仰に生きるべきではないですか。

  日本では周囲の期待に応える人が評価されますが、それが中心になると、周りの評価を恐れて善いことをするということになります。もしこの世界が善行をすればよいことがあるというルールなら、人は快と不快でしか生きなくなるでしょう。天の父は律法をそのようなものとはなさいませんでした。父の顔色をうかがいながら言われたことを忠実にこなす子どもではなく、父と共に考え、時にそれに反発しながら選び取っていく子どもであることをお望みになるのです。「律法学者にまさる義」とは、このことです。主は、律法を変えられたのではありませんでした。ここに書かれている掟を、生きた掟として守るように、お教えになったのです。主イエスは、単に規則を遵守するということにおいて、「律法学者にまさる義」と言われたのではありませんでした。「〇〇しなければならない」、「〇〇してはならない」という規則としての律法ではなく、応答としての律法についておっしゃっているのです。

  わたしたちはしばしば、律法を、こうすれば神が愛してくださるというものと思い込みます。「こうしなければ神はわたしたちを愛してはくださらない」、「神の怒りを買ってしまう」と。すると律法が厄介に感じ、廃止してほしいという思いにもなります。しかし、逆なのです。神がわたしたちを愛してくださるので、わたしたちは自由なのです。わたしたちが、神に愛される子どもとして、いかに生きるかなのです。でも、「あなたは自由なのだから、あなたが好きなように生きなさい」とは、聖書は言いません。聖書は、自由な者に律法を教えるのです。主イエスによって、わたしたちは、罪悪感からではなく、感謝の思いをもって律法に出会う者とされました。「どう思われるだろうか」と不安に駆られることからではなく、自由から律法を受け取るのです。いにしえの詩人は歌いました。「主の律法は完全で、魂を生き返らせ 主の定めは真実で、無知な人に知恵を与える」(詩19:8)。「いかに幸いなことでしょう まったき道を踏み、主の律法に歩む人は」(詩119:1)。「わたしはあなたの掟を楽しみとします」(詩119:16)と。

祈り


〒970-8036 いわき市平谷川瀬字仲山町25
Tel/Fax 0246-21-2145
          いわき きょうかい
日本キリスト教団 磐 城 教 会
牧師 上竹 裕子
更新:2017.2.24

Copyright 2011-2013 IWAKI KYOUKAI All Rights Reserved.


inserted by FC2 system