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降誕節第9主日 ≪いやすキリスト≫
礼拝説教抄録

日本キリスト教団磐城教会 2017年2月19日
 1アラムの王の軍司令官ナアマンは、主君に重んじられ、気に入られていた。主がかつて彼を用いてアラムに勝利を与えられたからである。この人は勇士であったが、重い皮膚病を患っていた。2アラム人がかつて部隊を編成して出動したとき、彼らはイスラエルの地から一人の少女を捕虜として連れて来て、ナアマンの妻の召し使いにしていた。3少女は女主人に言った。「御主人様がサマリアの預言者のところにおいでになれば、その重い皮膚病をいやしてもらえるでしょうに。」4ナアマンが主君のもとに行き、「イスラエルの地から来た娘がこのようなことを言っています」と伝えると、5アラムの王は言った。「行くがよい。わたしもイスラエルの王に手紙を送ろう。」こうしてナアマンは銀十キカル、金六千シェケル、着替えの服十着を携えて出かけた。6彼はイスラエルの王に手紙を持って行った。そこには、こうしたためられていた。
 「今、この手紙をお届けするとともに、家臣ナアマンを送り、あなたに託します。彼の重い皮膚病をいやしてくださいますように。」7イスラエルの王はこの手紙を読むと、衣を裂いて言った。「わたしが人を殺したり生かしたりする神だとでも言うのか。この人は皮膚病の男を送りつけていやせと言う。よく考えてみよ。彼はわたしに言いがかりをつけようとしているのだ。」
 8神の人エリシャはイスラエルの王が衣を裂いたことを聞き、王のもとに人を遣わして言った。「なぜあなたは衣を裂いたりしたのですか。その男をわたしのところによこしてください。彼はイスラエルに預言者がいることを知るでしょう。」
 9ナアマンは数頭の馬と共に戦車に乗ってエリシャの家に来て、その入り口に立った。10エリシャは使いの者をやってこう言わせた。「ヨルダン川に行って七度身を洗いなさい。そうすれば、あなたの体は元に戻り、清くなります。」11ナアマンは怒ってそこを去り、こう言った。「彼が自ら出て来て、わたしの前に立ち、彼の神、主の名を呼び、患部の上で手を動かし、皮膚病をいやしてくれるものと思っていた。12イスラエルのどの流れの水よりもダマスコの川アバナやパルパルの方が良いではないか。これらの川で洗って清くなれないというのか。」彼は身を翻して、憤慨しながら去って行った。13しかし、彼の家来たちが近づいて来ていさめた。「わが父よ、あの預言者が大変なことをあなたに命じたとしても、あなたはそのとおりなさったにちがいありません。あの預言者は、『身を洗え、そうすれば清くなる』と言っただけではありませんか。」14ナアマンは神の人の言葉どおりに下って行って、ヨルダンに七度身を浸した。彼の体は元に戻り、小さい子供の体のようになり、清くなった。
列王記下 5章1〜14節
 21イエスはそこをたち、ティルスとシドンの地方に行かれた。22すると、この地に生まれたカナンの女が出て来て、「主よ、ダビデの子よ、わたしを憐れんでください。娘が悪霊にひどく苦しめられています」と叫んだ。23しかし、イエスは何もお答えにならなかった。そこで、弟子たちが近寄って来て願った。「この女を追い払ってください。叫びながらついて来ますので。」24イエスは、「わたしは、イスラエルの家の失われた羊のところにしか遣わされていない」とお答えになった。25しかし、女は来て、イエスの前にひれ伏し、「主よ、どうかお助けください」と言った。26イエスが、「子供たちのパンを取って小犬にやってはいけない」とお答えになると、27女は言った。「主よ、ごもっともです。しかし、小犬も主人の食卓から落ちるパン屑はいただくのです。」28そこで、イエスはお答えになった。「婦人よ、あなたの信仰は立派だ。あなたの願いどおりになるように。」そのとき、娘の病気はいやされた。

 29イエスはそこを去って、ガリラヤ湖のほとりに行かれた。そして、山に登って座っておられた。30大勢の群衆が、足の不自由な人、目の見えない人、体の不自由な人、口の利けない人、その他多くの病人を連れて来て、イエスの足もとに横たえたので、イエスはこれらの人々をいやされた。31群衆は、口の利けない人が話すようになり、体の不自由な人が治り、足の不自由な人が歩き、目の見えない人が見えるようになったのを見て驚き、イスラエルの神を賛美した。
マタイによる福音書 15章21〜31節
1.いやしの物語の中心
  1週間のうちに、いろいろなことが起こります。心が躍るようなうれしい出来事があります。けれども、時として、心を引き裂かれるような痛みや悲しみに出会うことがあります。教会がよろこびの大きい場所であることは、間違いのないことです。しかし、教会の牧師として日々歩ませていただいている中で、実際には、心が重い出来事に出会うことの方が多いようにも思います。先週、とても重い出来事がありました。若い女性が流産をして、その葬りをしなければなりませんでした。この女性は、夫婦で来日して2年ほどの外国人で、家族がそばにいなく、連絡をくださったのは彼女の友人でした。また、教会学校の保護者の恩師にあたる方が危篤という連絡を受けました。急きょ帰省されていて、「日曜日の礼拝はお休みします」という連絡をいただきました。

  また、先週、お世話になっている宣教師のご母堂が召されて、その先生が葬儀で司式をされたと聞きました。お母さまもご家族も幸せだったろうと思いますが、牧師であっても自分の母親の葬儀の司式をすることは、どんなにつらいことだろうかと思わないではおれませんでした。母親に限りません。この手で葬りを行うということは、教会にとっても、牧師にとっても、大きな慰めであるのですが、同時に、この上なく心がダメージを受けます。自身が悲しみに暮れるとき、どうしてこの役が務まるかと思うほどです。

  主イエスは、どうだったのでしょうか。主はその宣教の初めから、行く先々で、病や痛み、苦しみ、あらゆる心身の障がいを負ったたくさんの人たちに囲まれていたと福音書は伝えています(マタ4:24)。古代にも、医学があり、医者は存在しましたが、皆が医者にかかれるというわけではありませんでした。主イエスは、いわゆる「名医」として知られていたわけではなかったはずですが、たしかに多くの人は、主にいやされたいという願いを持っていました。わたしたちは西洋医学の常識の中に生きているので、医者の役割について、エンジニアが車を扱うのと同じように、壊れた部分を修理したり、健康な体であれば点検したりすることだと思っています。けれども、主イエスのいやしの物語は、主が何か特別な技術や処方箋を持っていた、とは伝えていません。

  聖書日課によれば、今日の礼拝のテーマは、「いやすキリスト」です。ご一緒に聞いている福音には、わたしたちの新共同訳の聖書で「カナンの女の信仰」の物語と書かれています。主イエスが「いやし」を行われるのですが、いやしの出来事を直接的に語っている言葉は、最後のひとことだけです。「そのとき、娘の病気はいやされた」(マタ15:28)とあり、一件落着、よかったな、とホッとするのですが、このいやしの物語の中心に置かれているのは、娘の身に起こった結末ではないように思います。中心は、明らかに、何度断られても食い下がる母親と主イエスのやり取りです。

2.つれない答え
  それにしても、この母親も尋常ではありませんが、主イエスの態度も普通とは言えません。わたしなどはいつもこの場面にさしかかると、クールすぎる主の受け答えを、どう説明すればよいのかと思ってしまいます。解説に窮するのは、何もこの場面だけのことではないのですけれども。わたしが弟子のひとりとしてリアルタイムでこの場面に居合わせたら、「ごめんなさい。先生は、今日は体調がすぐれないので、お引き取りください。また明日お待ちしています」などと言ってシャッターを下ろすだろうと思います。とにかく説明がつかないですから。

  そもそも、なぜ主イエスはこの異邦人の地域にお入りになったのでしょうか。この箇所のすぐ前の場面では、主イエスがユダヤ人の指導者たちと昔からの言い伝えをめぐってひと悶着されています。それで、「イエスはそこをたち、ティルスとシドンの地方に行かれた」(マタ15:21)とあります。ひと悶着あった後で、主はこの地方に行かれました。「行かれた」とありますが、むしろ「退いた」という意味の言葉です。主は、このようにしてしばしば、退かれます。今日のこの物語は、マルコ福音書にも並行記事が記されていますが、マルコは、このとき主イエスが「だれにも知られたくないと思っておられた」(マコ7:24)と伝えています。主は、この町では、積極的に福音伝道に出て行くというよりは、静かな時間を過ごそうとお考えだったのかもしれません。突然、この母親が現れたとき、主は無言でした。「主よ、ダビデの子よ、わたしを憐れんでください。娘が悪霊にひどく苦しめられています」(マタ15:22)と母親が叫んでいるのに、主は「何もお答えにならなかった」(15:23)のです。沈黙というのは長く感じるものですから、この不可解なシーンは読み飛ばして、早く次に進みたいと思います。

  それで、次に何が起こったのか、ですが、今度は、黙っていられなくなった弟子たちがクレームを入れます。「この女を追い払ってください。叫びながらついて来ますので」(マタ15:23)。すると主イエスは、口を開かれます。「わたしは、イスラエルの家の失われた羊のところにしか遣わされていない」(マタ15:24)。異邦人はその範疇にないとおっしゃったのです。ようやく口を開かれたと思えば、決定的な言葉を語られます。それでも、母親は、この言葉を決定的なものとしては聞きませんでした。彼女にとっては、まだ状況を変えられる余地があるのです。「主よ、どうかお助けください」(マタ15:25)と懇願します。けれども、主の答えはノーです。「子供たちのパンを取って小犬にやってはいけない」(マタ15:26)。主のパンは第一にユダヤ人のものであって、異邦人に与えるわけにはいかないとおっしゃるのです。当時のユダヤ人の常識的な感覚を表した言葉ですが、とどめのようなひとことです。主は、なぜここまで突き放されるのでしょうか。娘のためにこんなにも一生懸命なひとりの母親を。

3.主が変えられた
  主イエスの行かれる先々で、いつも人だかりができました。さまざまな願いをもった人たちの群れが。そこにはたくさんの要求がありました。右を見ても左を見ても、だれかが何かを求めてきました。人々は、主が何者であるのかを知ることよりも、この方が自分たちに何をくださるのか、自分たちのために何をしてくださるのかに興味がありました。あなたがだれであるかは知らないけれど、あなたはわたしによいものをくれる、わたしにあれもこれもしてくれる。そう言って、鳴りっぱなしの電話のようにとめどなく集まってくる人たちの中に身を置かれて、主が、疲れのひとつも覚えないのだとしたら、それは人とは言えません。主は、一度退かれ、シャッターを下ろされたのです。「わたしはまず同胞を救うために来たのであって、同胞を飛び越えて世界救済と言うつもりはない」と。幼い頃からユダヤ人としての教育を受けてきた人が、「犬」と呼ばれ近寄らないよう教えられてきた異邦人に向かうという労力、意図しない道を行くためにギアチェンジする労力がどれほどのものなのか、わたしたちはもっと想像すべきだと思います。

  でも、このシャッターが完全に閉まり切ろうとする瞬間、ギリギリに足を突っ込んで、ゼッタイに閉めさせない、むしろこじ開ける勢いの人がいます。この異邦人の母親です。「子供たちのパンを取って小犬にやってはいけない」という主のお言葉を、とどめにはさせないのです。母親は答えて言いました。「主よ、ごもっともです。しかし、小犬も主人の食卓から落ちるパン屑はいただくのです」(マタ15:27)。犬というのは、いつの時代も、どこの家庭の食卓においても、抜け目のない存在なのですね。こぼれ落ちるパン屑をいただく、というこの母親のひとことが、シャーとシャッターを開けさせました。主は、驚いた顔で、敵わないなという顔で、こうおっしゃいました。「あなたの信仰は立派だ。あなたの願いどおりになるように」(マタ15:28)。この母親の愛する娘は、たちまちにいやされました。

  わたしたちがこの社会に生きることは、内と外とを分け、中心と周辺の区別を持つことです。どこかに線を引き限界を定めなければ、わたしたちは生きられません。主イエスは、これまで、ユダヤ人への宣教を中心的なこととして、その周辺については、強い使命感は持たれていませんでした。この安定した円をかき乱し、これまで守られてきた内と外の境界線を破ろうとする者が現れました。この出会いが、主のご生涯の使命に、たしかに変化を与えたのです。わたしたちが持っている境界線は、絶対的なものではありません。この境界は簡単に動かすことはできないものですが、変えられうるものです。主は御自ら、ひとりの人の出会いによって変えられるお姿を見せてくださいました。自ら作り出し、自らこだわっている古い境界線が破られ、更新されるとき、「いやし」が、新しい信仰の出来事が起こるのです。

祈り


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Tel/Fax 0246-21-2145
          いわき きょうかい
日本キリスト教団 磐 城 教 会
牧師 上竹 裕子
更新:2017.2.24

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